Charles Baudelaire “L'étranger”

 なんとなく翻訳がしたい気分。ということで邦訳のない現代詩でも訳そうかと思ったけど、それは著作権的にまずそうなので結局古典に落ち着く。シャルル・ボードレール散文詩パリの憂鬱』から冒頭の詩を。

異邦人 


――君がいちばん愛しているのはだれかね、謎めいたお人よ? 父親、母親、姉妹それとも兄弟?
――私には父親も、母親も、姉妹も、兄弟もいない。
――では友達か?
――あなたは今日まで私がその意味を知らないでいた言葉をお使いになる。
――なら祖国か?
――私はそれがどの緯度にあるのか知らない。
――美人はどうだ?
――女神のように気高く、不死であるのなら、喜んで愛しもしようが。
――さては黄金か?
――あなたが神を憎むように、私は黄金を憎む。
――ああ! 君はいったい何を愛するのかね、奇妙な異邦人よ?
――私は雲を愛する……流れゆく雲を……ほらあそこ……あそこだ……素晴らしい雲!


http://baudelaire.litteratura.com/le_spleen_de_paris.php?rub=oeuvre&srub=pop&id=139

 この異邦人が教育基本法改正案を見たら、鼻で笑うでしょうナ、どうでもいいけど。

『ワトソンはいかにしてトリックを学んだか?』コナン・ドイル著

 前回のエントリで取りあげたシャーロック・ホームズの掌編をなんとなく訳してみる。おもいっきり直訳なのですごい読み辛いけど。あと、ボードレールは長すぎるので訳し(せ)ません。あしからず。

 ワトソンは朝食のテーブルについてからずっと、熱心に彼の友人を観察し続けていた。ホームズがひょっと顔を上げると彼と眼があった。
「それで、ワトソン、なにを考えているのかね?」と彼は尋ねた。
「君のことだよ」
「僕の?」
「そうとも、ホームズ。君のトリックというものがいかに底の浅いものかをね、公衆がそれに興味を持ち続けることがまったくもって不思議でならないんだ」
「まったく同感だね」とホームズが言った。「実のところ、僕自身似たようなことを口にした覚えがある」
「君の方法は」とワトソンは手厳しく言う。「実に簡単に身につけられる」
「疑いない」ホームズは微笑んで答えた。「おそらく君はその推理方法を実演してみせてくれるだろうが」
「喜んで」ワトソンは言った。「今朝起きたとき、君はなにかに深く気をとられていたと言うことができるね」
「素晴らしい!」とホームズ。「どうしてそれを知ることができたのかね?」
「なぜなら、君は普段とても身なりのきちんとした人なのに、髭を剃り忘れているからさ」
「なるほど! なんて目ざといんだ」ホームズが言った。「僕は思ってもみなかったよ、ワトソン、君がこんなに出来のいい生徒だとは。その鋭い眼力は他になにか見つけだしたかね?」
「もちろんだとも、ホームズ。君はバーロウという名前の依頼人を抱えているね、そしてその事件はうまくいっていないようだ」
「なんだって、どうしてわかったのかね?」
「封筒の外側にその名前が見えたからね。君はそれを開けると、うなり声をあげて、しかめっ面をしてポケットにつっこんだ」
「見事だ! 君は実に注意深い。他の点は?」
「僕が思うに、ホームズ、君は金融投資を始めたんじゃないかな」
「どうしてまたそんなことが言えるのかね、ワトソン?」
「君は新聞を開き、金融欄を捲って、大きな感嘆の声をあげたじゃないか」
「よろしい、実に上手いぞ、ワトソン。他には?」
「そうだね、ホームズ。寝間着の上にガウンを羽織る代わりに黒い上着を着ているのは、もうすぐ重要な訪問客があることの証なんじゃないかな」
「他には?」
「もちろん他の点も見つけることができるに違いないがね、ホームズ、世の中には君と同じくらい賢明な人間が他にもいるということを示すためには、これら僅かなものだけでいいだろうね」
「それに、それほど賢明ではない人もいる」とホームズ。「それほど多くはないことは認めるが、残念なことに、ワトソン君、君をその一人に数えなければならないようだ」
「どういうことだい、ホームズ?」
「ええとだね、君。思うに、君の推理は僕が望んだほど巧みなものではなかったようだ」
「僕の推理が間違っていたというんだね」
「ほんの少しだけどね。順番に要点をつかんでいこうか。僕が髭を剃らなかったのは、剃刀を研ぎに出していたからなんだ。上着を着ているのは、あいにく、朝早く歯医者に行くからなのさ。その名前がバーロウで、あの手紙は予約の許可状なんだよ。クリケットのページが金融欄の隣にあってね、僕がそこを開いたのは、サリーがケントを向こうに回して健闘したかどうか知りたかったからなんだ。だが続けたまえ、ワトソン、続けたまえよ! これは実に底の浅いトリックだからね、君もすぐに身につけられるに違いないよ」

探偵の力

 近代の均質化した大量死=大量生が個々の死を詳細に扱う探偵小説形式を生んだという笠井潔の説には、なるほどと頷きながらも、いまひとつ納得がいかなかった。しかし、エラリー・クイーン作品の分析を通して、純粋に論理的な推論に事件の解決を委ねたはずの本格ジャンルにおける探偵の推理のゲーデル的不完全さと非自己完結性*1や、作者の非論理的で恣意的な操作による事件の解決等を、法月綸太郎の評論にも絡めつつ論じた文章は面白く読めた。
 まあ、本格以前に目を向ければ、コナン・ドイルはすでに、How Watson Learned the Trickワトソンはいかにしてトリックを学んだか) *2において、ホームズの推理が堅忍不抜な論理に基づいて必然的に真理を導き出しているわけではなく、本質的にはワトソンの下手くそな推理と変わらない「底の浅いトリック(superficial trick)」でしかないこと、つまり彼が名探偵でいられるのは彼自身の推理能力や論理以外のなにか――勘、運、偶然、経験、あるいは作者という名の神の手など――によって支えられているのではないかということを示唆しているし*3、また、フランスにおけるエドガー・アラン・ポー紹介者の一人であるボードレールは、《エドガー・アラン・ポー、その人生と作品(仏語)》の中で、ポーの方法論が「蓋然性と推測論の世界で、子供っぽくかつほとんど背徳的なまでの快楽のうちに行われる」ものであると喝破しているわけで*4、上記の問題は決して目新しい題材ではないのだが、それだけ探偵小説にとっては根深いということなのだろう。
 探偵小説の極北に、わけのわからない直感や能力で事件を解決する清涼院流水の探偵たちが登場することは約束されていたのかもしれない。

*1:作品内部の情報だけでは探偵の推理が正しいのか究極的には確定できないということ

*2:邦訳は確か富山太佳夫の『シャーロック・ホームズの世紀末』にあったと思う。

*3:シャーロッキアンの中には、「ワトソンはいかにしてトリックを学んだか」が外典またはドイル自身によるパロディであるとして、この掌編を重要視しない向きもあるようだが、たとえそうだとしても、ここにホームズ的推理法の根源的欠陥が露呈していることに変わりはない。

*4:ボードレールはむしろそのことによってポーを偏愛しているふしがあるが。

事実は小説より奇なり

夫人は一切野球に興味がなく、夫がプロ野球選手であることも知らなかった。福本も福本で「松下から阪急に転職するから」としか説明しなかったからだが、夫人は夫が阪急電鉄の駅員として働いているものと思い込み各駅を探し回った。そのうちに駅員から「もしや、あなたの探しているのは盗塁王の福本では?」と教えられ、初めて事実を知ったという。

(出典:フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』福本豊
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%9C%AC%E8%B1%8A

 マジですか、これ? いや、会社員の振りをして妻に内緒で泥棒稼業を務めているという話はたまに聞きますけど、この場合、夫は世界の盗塁王福本豊ですよ? 夫人が野球に興味がなかったというだけでなく、当時はパリーグの選手がマスメディアで脚光を浴びることが少なかったことも原因のひとつなんだろうけど、それにしてもなあ。

連続試合フルイニング出場から勤勉さの涵養を導く皆勤賞至上主義

(……中略)金本が記録をつくった足かけ8年は高校・大学の7年に匹敵する。この間、優等生で皆勤賞を続けた。フル出場の維持は「仕事に対する責任感」と金本◆そこここで責任感が劣化し、不祥事が続発する世にまたとないお手本だ。
(読売新聞4月10日夕刊第一面「よみうり寸評」より引用)

 これは、阪神タイガース金本知憲選手による連続試合フルイニング出場世界記録の更新をうけた読売の記事というかコラムの一部。
 そのうちこの手の論調が現れるんだろうなと予想していただけに、あーやっぱりね的諦念をもって受けとめたのではあるが、それでもやはり実際にこういう文章を読むと阪神ファン、いやいち野球ファンとしてゲンナリする。
 金本選手の記録は素晴らしいものだが、人によって身体の丈夫さや体力には違いがあるわけで、野球の実力に秀でているからといって誰もが金本選手のように続けて試合に出られるわけではない。選手個々人の体調や体力を見極めて適宜先発メンバーの変更や試合中の選手交代をおこない、保有する各選手の持てる力量を最大限に引き出すのが監督・コーチの重要な役目の一つだろう。またメジャーリーグではスタメンで出場するレギュラー選手の多くが定期的に試合を休むが、こうしたことはなんら選手の評価を貶めるものではない。
 金本選手にしても大先輩の「鉄人」衣笠祥雄氏にしても骨折しながら試合に出続けた時期さえあったことを思えば、連続試合出場は一つ間違えば選手生命を危険にさらすリスクを内包しているということを忘れてはならないはずだ。本人がどうしてもフル出場を望み、結果的に好成績を残しているならそれを応援するのもいいけれど、選手本人ではなくファンやメディアが連続試合フルイニング出場を自己目的化して一方的な期待をかけるようなことになれば、それは僭越を通り越して犯罪的ですらあるだろう。
 まして、野球を離れれば、一般的に皆勤賞ってそんなに称揚すべきものかぁ? 学校や会社で皆勤賞をとることと好成績をあげることの間に相関関係があるのかどうかわからないし、あったとしても体を壊す危険を犯してまで追い求めるものかどうかは疑問だ。
 そりゃ本人が学校・会社に一瞬たりとも休むことなく通うことを望み、それを勉学や仕事を続けるモチベーションの維持に繋げているのなら他人がとやかく言う筋合いではないかもしれないが、他人がそれを好ましいものとして規定するとなると話の構図は逆転する。本人が休みたくても休めなくなる雰囲気が醸成されてしまうかもしれず、その結果望まずして過労に繋がることにもなりかねないのだから。そのようなことはゆめゆめ謹まねばなるまい。ましてやプロ野球の記録を「不祥事が続発する世にまたとないお手本だ」などといって一般的な勤労倫理の話題へ連結するなど論理的飛躍もいいところである。

当世大学事情或いは教員奮闘記

学生と読む『三四郎』 (新潮選書)

学生と読む『三四郎』 (新潮選書)

 これって、ちゃんと『三四郎』の分析がなされているとはいえ、小説・文学の関連書籍というよりは、いかに学生を実社会とはいっけん無縁な学問の場で鍛えあげ、一人前の社会人として送り出すかという教育論の本、あるいは大学教員向けの学生指導用参考本ではないのかな。教育者でもなんでもない私は読んで肩すかしを食ったが、そういう用途としては非常に実践的で、文学以外の専攻でも応用可能だと思う。原稿用紙の使い方もろくに知らず、感想文すら書けなかった学生たちを、技術的にも内面的にもいっぱしの論文が書けるまでに指導する「鬼教授」石原氏の手並みはみごとと言うしかない。
 ひきこもりに対する一面的な見解*1など、一部に気になる社会論・教育論的な記述が見られるのだが、それは文系の大学教授として、今の社会状況で自分の教え子はなんとかまともに就職させたいという、現場での切羽詰まった熱意のなせるわざなのだろう。ふと思ったのだが、その若者論や教育論がいろいろと取り沙汰される内田樹氏も似たような事情なのかもしれない。だからといって誤謬や偏見があっても容認していいというわけではないが。
 批評理論をテクスト分析を通して実践的に知りたいだけなら、廣野由美子『批評理論入門『フランケンシュタイン』解剖講義』(中公新書)のほうがいいと思う。そのかわり、こちらには「成長」という物語はないが。

*1:”いまは、「就職したら、女性は伸びない」などという声さえもう小さくなってきた。有能な女性はどんどん社会に出るだろう。その時、有能でない男性、あるいは自分が有能でないと感じる男性は、男性であるという理由だけでそれまで得ていた仕事や地位を失うことになるだろう。では、行き場所を失った彼らはどうすればいいのか。たとえば「ひきこもり」という形で、それが「社会問題化」する傾向は十分現れてきているようだ。"p.248

須賀しのぶ『天翔けるバカ』全二巻

天翔けるバカ―flying fools (コバルト文庫)

天翔けるバカ―flying fools (コバルト文庫)

 時は第一次世界大戦、主人公はイギリス空軍の傭兵部隊に所属するアメリカ人で、ドイツ空軍の登場者は撃墜王レッドバロンことマンフレート・フォン・リヒトホーフェンや若き日のヘルマン・ゲーリング*1というこの小説は、大量殺戮と無名性の中での死によって消えゆく古き良き騎士道精神や、なによりも空を飛ぶという長い間の人類の夢を現実にしながらも殺戮兵器と化してしまった飛行機に愛憎を込めて捧げられたものだ。そういう点で、内容は全然違うけれども作品の持つ意味性が宮崎駿の『紅の豚』に似ている。
 ただ、ひとつ注意しなくてはいけないのは、かつて部分的には高潔かつ英雄的であろうとした騎士が存在したとしても、総体的な観点からすれば、殺戮の規模や兵器の威力こそ違え、もとより戦場がなにか素晴らしいものであったわけではないということだ*2。そんなことは『パルムの僧院』のファブリス・デル・ドンゴがワーテルローの片隅でとっくに気づいていたのではあるが。
 それにしても、当時の軍隊を舞台にしているので当然といえば当然かもしれないが、この小説は敵味方の区別なく、非常に男臭いホモソーシャルな雰囲気に満ちている。こういうものがコバルト文庫という、女性読者を主にターゲットにしていると思しきレーベルから出ているのが不思議だ。

*1:第二次世界大戦時のドイツ第三帝国空軍元帥。

*2:「戦争」には高貴な意味づけがなされる場合があっても、「戦場」は常に凄惨だ。