探偵の力

 近代の均質化した大量死=大量生が個々の死を詳細に扱う探偵小説形式を生んだという笠井潔の説には、なるほどと頷きながらも、いまひとつ納得がいかなかった。しかし、エラリー・クイーン作品の分析を通して、純粋に論理的な推論に事件の解決を委ねたはずの本格ジャンルにおける探偵の推理のゲーデル的不完全さと非自己完結性*1や、作者の非論理的で恣意的な操作による事件の解決等を、法月綸太郎の評論にも絡めつつ論じた文章は面白く読めた。
 まあ、本格以前に目を向ければ、コナン・ドイルはすでに、How Watson Learned the Trickワトソンはいかにしてトリックを学んだか) *2において、ホームズの推理が堅忍不抜な論理に基づいて必然的に真理を導き出しているわけではなく、本質的にはワトソンの下手くそな推理と変わらない「底の浅いトリック(superficial trick)」でしかないこと、つまり彼が名探偵でいられるのは彼自身の推理能力や論理以外のなにか――勘、運、偶然、経験、あるいは作者という名の神の手など――によって支えられているのではないかということを示唆しているし*3、また、フランスにおけるエドガー・アラン・ポー紹介者の一人であるボードレールは、《エドガー・アラン・ポー、その人生と作品(仏語)》の中で、ポーの方法論が「蓋然性と推測論の世界で、子供っぽくかつほとんど背徳的なまでの快楽のうちに行われる」ものであると喝破しているわけで*4、上記の問題は決して目新しい題材ではないのだが、それだけ探偵小説にとっては根深いということなのだろう。
 探偵小説の極北に、わけのわからない直感や能力で事件を解決する清涼院流水の探偵たちが登場することは約束されていたのかもしれない。

*1:作品内部の情報だけでは探偵の推理が正しいのか究極的には確定できないということ

*2:邦訳は確か富山太佳夫の『シャーロック・ホームズの世紀末』にあったと思う。

*3:シャーロッキアンの中には、「ワトソンはいかにしてトリックを学んだか」が外典またはドイル自身によるパロディであるとして、この掌編を重要視しない向きもあるようだが、たとえそうだとしても、ここにホームズ的推理法の根源的欠陥が露呈していることに変わりはない。

*4:ボードレールはむしろそのことによってポーを偏愛しているふしがあるが。