執着という名のイカリ

 昨日はあんなこと書いちゃったけど、さしあたって学校当局が有効ないじめ対策に積極的に取り組むなどということはとても考えられず、いじめ被害者が主体的に闘争するということが極めて過酷である以上、とりあえずは各自が逃げ場を確保するしかないかもしれない。
 といって、その逃げ場が空間的なものである必要はない。いつだったか確か香山リカが、アニメの続きが観たいという理由でもなんでも死なないための力になるならいい、というようなことをエヴァンゲリオンを引き合いに出して言っていたような気がするけど*1、俺なんかまさにその通りで、あああの小説も読みたい漫画も読みたいアニメも観たいと思ったら死ぬに死ねないもんなあ。こうして書くとわれながらみみっちい欲望で情けなくなるが、結果的に死なないで生きているのだから問題ない。
 そんなことを考えていたら、唯円の『歎異抄』のとある一節を思い出したので、ちょっと長くなるが引用してみる。

一 念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと[云々]。

(すげえいいかげんな現代語訳)
唯円:念仏を唱えてもいっこうに嬉しくならなくて、はやく浄土に行きたいという気持ちにもならないんですけど、これってどうなんですか?
親鸞:いや実は俺も同じなんだよ。よく考えてみればさあ、喜ぶべきことを喜ばないからこそ往生が約束されているってことなんだよね。喜ぶべき心をおさえて喜ばないのは煩悩のせいなんだ。だけど仏様はそんなこと先刻承知で、お前らは煩悩にまみれて悟りも開けない凡人だと仰っていることだし、他力の悲願はこのように俺たちのためなんだとわかって、ますます頼もしく思えてしょうがないよなあ。それに、はやく浄土に行きたいという思いがなくて、苦しいことがあって死んでしまうんじゃないかと不安になるのも、煩悩のせいなんだよ。ずっと昔から地べたを這いずり回ってるつらいこの世は捨てがたくて、まだ行ったことのない極楽浄土を恋しく思わないのは、まったくもって煩悩が暴れ回ってるからなんだ。名残惜しく思っても、娑婆との縁が尽きて、寿命が終わるときになってようやく、浄土に行くべきなんだ。はやく浄土に行きたいなんて気にならないやつのことを、(阿弥陀仏は)とくに憐れんでくれるんだな。これだからこそいよいよ大悲大願はたのもしいんだし、往生も決まっているんだと思いなさい。むしろ、嬉しくて早く浄土に行きたいと思うなんて、煩悩がないんじゃないかと不思議になっちゃうだろう。

 ここのくだりは信仰心なんてこれっぽっちもない俺でもありがたく感動するところで、死ねば神の国に行けるからといって死を促したりする教えがいかに非人間的かということを教え諭してくれる*2
 とはいえ死ねば苦しみから逃れられるというのは確かにそうなんだろうし、そうまで本気で思いつめちゃった子にはそれこそおためごかしの気休めにしかならないのかもしれないけど、そういう陥穽から逃れるには、死にきれないほど名残惜しく思う煩悩というか執着心を持つのも一つの手だろう。
 たとえば、古田織部を描いた漫画『へうげもの』に出てくる荒木村重の「名物*3」に対する執着はもの凄い。織田信長との戦に敗れて落ち延びた彼は、一族郎党を皆殺しにされ、頭を丸めて名前も道糞と変え、かつての自分の居城で羽柴秀吉に卑屈なまでに恭順してまでも生き延びようとする。それはなぜかというと、「たとえ卑屈になろうが……/己が城やったここで頭を下げようが……/わしは密かに勝っておる/生きてさえおればええ物を奏でられるんやからな/もはや信長にはでけへんことをやれるっちゅうわけや」(第三巻)ということだからだ。はたから見ればどんなにみっともなかろうが、彼にとっては生きて名物を愛玩できていれば勝ちなのだ。
 いわば、煩悩や執着心を逃げ場というよりも嵐の中でも船が流されないための錨として利用すること。
 こういうと、そんなのはフェティッシュ(物神化)だ、あるいは阿片だとマルクス先生に怒られるかもしれないけど、阿片を必要としなくても生きていけるような現実的条件が揃わない限り、阿片をなくすことはできないと先生もおっしゃっていることだし、勘弁してくれるでしょう。
 おっと、そろそろ「ギャラクシーエンジェる〜ん」を見なければならない時間なのでこの辺で……。

*1:実は全くの記憶違いかもしれない。間違っていたらすいません。

*2:ただし、信仰心なしでひたすら煩悩を全開にするというのはけっして親鸞の本意ではない。

*3:茶器