プリプリといっても「ダイアモンドだね」のアレではない。

プリンセス・プリンセス

「姫」という制度。それは、男子校での男ばかりの生活の潤いとなるべく見目麗しい生徒を選び、校内のイベントの度に女のコの格好をさせるというもの。
しかも、衣装はゴスロリ
転校生・河野亨は、その美形さゆえに本人が気づかないうちに「姫」候補にされてしまう。初めは拒絶していた亨だが、姫役の生徒には金銭面をはじめ様々な特典があると聞き、「姫」を引き受ける。
学園には先に「姫」となっている四方谷裕史郎と豊 実琴がいた。完全に「姫」を楽しんでいる四方谷と、いまだに「姫」から逃げ出そうとしている実琴。
3人を中心に、強烈な個性の脇役たち (全員が美形!) が繰り広げるちょっとオカシナ学園生活がはじまる。
(公式HPより)

 ……なんだこの超設定。
 まあわが国には、同性愛・少年愛関係を伴うか否かは別として、稚児とか色子とか女形といった女装の伝統があるわけで、近代化=西洋化に伴う道徳刷新によって意識下に抑圧されたそれら文化の古層の記憶がアニメや漫画、ライトノベルなどの「サブ」カルチャーという土壌を得てここを先途となに憚ることなく返り咲いているのかもしれず、海外それも特に欧米のオタクが Japanimation や Manga に熱狂するのも、キリスト教文化圏ではタブー視されている表現に対するエキゾチシズムが一役買っているのかもしれない――などといい加減で凡庸な似非批評言説を弄んで、このアニメをそこそこ面白く観てしまったことをもっともらしく理由づけようとしている自分が嫌いだ。
 とまあくだらない繰り言はともかくとして、この手の作品の登場人物が美形ばかりなのが、まるで美形でなければ異性装をしてはいけないと暗に言っているみたいな感じがしてどうも気になる。
 あと、このアニメとは関係ないが、性差の境界を侵犯するという意味でどちらも同じ行為なのに、歌舞伎など芸能の場以外で女装する男性に対してはまだまだ世間的に拒否反応が強い(のではないかと思う)にもかかわらず、男装のほうは宝塚を離れても「男装の麗人」などといって比較的許容されやすいのはなぜなのだろうか。まさか、単に見目麗しいからというわけではないとは思うが。

地球をしばらく止めてくれ、私はゆっくりアニメが見たい

 アニメの新番組が多すぎる。私の住む地域では、なななんと今日だけで全国ネットと独立UHFあわせて七本もあるのだ。見られるわけないだろ、そんなん(逆ギレ)。だいたい、時間に余裕のある人だってこれだけの数を全てチェックするのはちょっとしんどいんじゃないか。
 いやまあ、別にアニメおたくだからといって全ての番組を網羅しなければならないというわけではないが、いくらなんでもインフレが過ぎる。首都圏と比べて放送数の少ない地方在住の方が眼にされたら贅沢言うなと怒られるかもしれないが、そこはひらにご容赦を。
 ともかくここは涙を呑んで、もともと見る気がなかった番組に加えて

  • 漫画・ゲーム・小説などの原作が存在しており*1、かつそれを私が体験しているもの

 という条件を満たす番組を視聴リストから除外するという対策をとらざるをえない。原作との違いを見比べるというのも一つの楽しみ方ではあるけれども、アニメに割ける時間が少ないことを考えればそんな優雅な視聴方法は私には許されていない。
 そこで、除外される番組の題名を挙げると、たとえば『NANA』であるとか、『ひぐらしのなく頃に』であるとか、『ARIA The NATURAL』であるとか、『ああっ女神さま』であるとか、『スクールランブル二学期』であるとか、『涼宮ハルヒの憂鬱』であるとか、『うたわれるもの』であるとか、『吉永さん家のガーゴイル』であるとか……とやっていくと、忙しくて時間がないなどと言いながらサブカル・おたく系の有名どころにけっこう目を通している自分がいることと、その結果、しまいには見る番組がほとんどなくなってしまうことに気づいた。視聴番組削減という目的からすれば慶賀すべきなのだろうが、既存の原作付きではないテレビオリジナルのアニメがどんどん減っているのは寂しい限りだ。
 アニメ界もいろいろ厳しいのではあろうが、なんかこう、広がって伸びきってしまった風呂敷にあわせるべく無理矢理にでもコンテンツを増やしているという感じがしてならない。一日当たりの刊行点数は増えても、それに反比例するかのごとく販売部数が減る書籍界のようなことにならなければよいがと老婆心ながら危惧してしまう。

*1:当初からメディアミックスを前提にしており、たとえば『忘却の旋律』のように各媒体で全く内容の違うものは除く。

ミスマッチもまた愉し

Charlie Parker - Studio Scenes
 YouTubeというのは著作権的にどうなんだろうと思うのだが、面白い映像が見つかるのでついつい覗いてしまう。マクリーンの映像を探したのだが見つからなくて残念。代わりに彼の師匠格であるチャーリー・パーカーの、残されたものの中では画質音質共に良いものを見つけた。
 コールマン・ホーキンズバディ・リッチといった、ビ・バップとは一線を画したミュージシャンと軽やかにセッションしている。アート・ブレイキーマックス・ローチのタイトさは欠片もないバディ・リッチの派手なドラムソロをすげえすげえという感じの面持ちで笑いながら眺めているバード*1が微笑ましい。パーカーとバディ・リッチはヴァーブのアルバム『bird and diz』で一緒に録音を残しているが、革新的で過激なことをやっていながら共演者のスタイルなんか全然気にしないのが彼やバド・パウエルの凄いところだ。

*1:パーカーの愛称

くもりガラスを手でふいて、あなた、瞳子が見えますか

 この巻のサブタイトルを目にして「ルビーの指環」を思い浮かべるかどうかで世代の違いが如実に現れるような気がする。十代の女の子だと曲自体知らない人も多いのだろうな。しかしくもりガラスから「さざんかの宿*1」までは咄嗟に思い至らなかったあたり、私もまだ若い(と思いたい)。

*1:どうでもいいことだが、こち亀の大原部長のカラオケ得意曲。

dedicated to JACKIE McLEAN

(04/04加筆修正)
 ジャッキー・マクリーン*1が死んだ。享年73。
 ここ数年、ミルト・ジャクソンジョン・ルイストミー・フラナガンといったジャズ界の大御所が立て続けに亡くなったが、これでまた一人、ジャズが最も熱気を持っていた時代を体現するミュージシャンが鬼籍に入ることになった。1932年生まれということは、つい先頃来日して健在っぷりを示したオーネット・コールマンより若いわけで、その早すぎるというほどではないにせよまだ逝かなくてもと思わせるにはじゅうぶんな歳での死を悼む。
 さてそこでジャッキー・マクリーンの音楽を愛好するジャズファンの一人として、この訃報に触れて久しぶりに彼のアルバムを聴いてみようと思ったのだが、それにもかかわらず迷った末に選び出したのはマル・ウォルドロンの『LEFT ALONE』であった。ちなみに、マル・ウォルドロンもすでに死去している。

Left Alone: Dedicated to Billie Holiday

Left Alone: Dedicated to Billie Holiday

 このアルバムのタイトルにもなっている「LEFT ALONE」という曲は、マル・ウォルドロンが伴奏を務めていたヴォーカリストビリー・ホリデイに捧げた曲*2なのだが、そこにマクリーンがゲストという形で参加しているのである。なぜわざわざアルバムのジャケットにゲストと銘打ってあるかというと、マクリーンは生きていればホリデイが歌うはずだった歌詞のパートをもっぱら演奏しているから。彼はあくまでホリデイの代役という位置づけなのだ。そのためか、ここでのマクリーンは歌のメロディーラインを心持ち崩し気味とはいえほぼ忠実になぞっていて、アドリブといえる部分はほとんどない。
 もともと曲調が哀切きわまりない短調である上に、ウォルドロンとマクリーンの演奏も情緒纏綿たるもの*3なので、ジャズ史を眺め渡してもこれ以上感傷的なものは見あたらないというできになっている。アルバムのジャケットには「at the piano plays moods of BILLY HOLIDAY」と記してあるのだが、マクリーンが参加していない他の四曲まで重く悲しげであることを考えると、能書きに反して、マイナーの曲を得意とするウォルドロン的雰囲気が全体に満ちているという気がしないでもない。ビリー・ホリデイというと、歌手になる前の悲惨な少女時代や人種差別、それに麻薬中毒、そしてなによりもリンチを受けて木に吊された黒人の死体の様を歌い上げた「奇妙な果実」があまりにも有名であるために、なんとなく暗いイメージがつきまといがちだが、実際に聴いてみるとそのキャリアを通して明るく闊達な歌唱が意外と多いことに気づく。もちろん同時に哀しげなブルースや重厚深遠な唱も数多くあるが、恋人でもあるレスター・ヤングと競演した「When You're Smiling」で、「Keep on smiling, Cause when You're smilng, the whole world smiles with you」と朗らかに歌うのを聴けば、暗く悲しいムードだけで彼女を塗り込めてしまうのはあまりに一面的であることは明らかだ。仮に過酷な人生経験から彼女の存在の基底が哀調で形作られていて、その笑いを支えているものが悲しみや苦しみであったのだとしても、それを単純に表出するほど野暮な歌手では彼女はなかった。彼女は歌に自分の経験や感情を生のまま託してしまうことはしない人であったからこそ、どんな歌を唄っても歌詞の内容を余すことなく表現することに卓越した歌い手たり得たのではないかという印象を持つ。彼女は悲しいことがあったときに悲しい歌を唄う、ということはしないのではないかと勝手に思う。
 だからここでの演奏はむしろ、たとえビリー・ホリデイの「器楽演奏であっても歌詞に注意しなさい」という助言に従って、彼女が作詞した「LEFT ALONE」を演奏してはいても、ホリデイの音楽とは関係なく、音楽的にも人間的にもビリー・ホリデイという人を深く敬愛した二人のミュージシャンの、彼女を喪った深い悲しみが素直に露出しているのだと思いたい。そもそも、ビリー・ホリデイの代わりにマクリーンのアルトで歌わせようとしたウォルドロンの試みは面白いものではあるが、あるミュージシャンの代わりとしてその空關を埋めるなどということは誰にもできまい。マクリーンはマクリーンでしかないのであり、ここでの演奏はどこまで行ってもマクリーンのものなのだ。これはマル・ウォルドロンジャッキー・マクリーンという二人のミュージシャンによる、不器用で率直な弔歌なのである。彼らは、ホリデイの数多い愛唱曲の一つである「Please Don't Talk About Me When I'm Gone(私がいなくなってもなにも言わないで)」の歌詞にある、「And listen if yu can't say anything real nice, it's better not to talk at all, that's my advice(お聞きなさい、もしあんたがほんとうに素敵なことを言えないのなら、なにも言わずにいるほうがいいわ、それがあたしのアドバイスよ)」という言葉に従わなかったのだ。
 これは私一人の印象として言うしかないのだが、それでも彼らの演奏が甘ったるく嫌みに聞こえないのは、聴く者を感動させてやろう、泣かせてやろうなどというあざとい計算や媚びが微塵もないからだ。それでいて音楽としての構成が疎かにされているわけでは決してない。名演と呼んで差し支えないと思う。とはいえ実際問題としてこのアルバムはアメリカではまったくといっていいほど売れず、日本でも最初は不人気で即廃盤になってしまったそうだが、商業的な配慮など念頭になく、どこまでもビリー・ホリデイを哀悼する自分の感情に忠実であることを貫いたからこそ、かえって希有な名演を生むという滅多にない僥倖たり得たのだ。『レフト・アローン'86』という日本制作の再演盤が根本的にダメなのはその点にある。ビリー・ホリデイの死から約三十年経ち、たとえ二人のホリデイに対する感情がいささかも変わっておらず、演奏の質も高いとしても、作品としてできあがったアルバムには、この曲を偏愛する日本人ジャズファン向けのサービスという意味あいが否応なく附与されてしまうからだ。それは演奏する当人の意気込みとは関係なく、不可避的にいま-ここの直截さを失った外面的な反復にならざるをえない。どうしてわざわざ屋上屋を架す必要があるのだ? 一枚あればじゅうぶんではないか、『LEFT ALONE』は。奇跡はそう何度も起こるものではない。聴きもしないでこういうことを言うのはそれこそよくないとわかってはいるけれども。
 ……なんだかマクリーンに捧げるという表題の趣旨とはまるで関係ない内容になってしまったようで、こんなことならなにも言わないほうがよかったという気もするが、それもひとえに「LEFT ALONE」の重力に引き寄せられてしまったためであると言い訳しておこう。

*1:アルト・サックス奏者

*2:といっても、曲自体はホリデイの生前に作られたもので、彼女が作詞しているが、ホリデイ自身の録音はない。

*3:具体的に言うと、リズムが拍の前で絶妙な間を持たせているということ。

漱石もびっくり?

漱石ゆかりの高校、「坊っちゃん」読了生徒4割
 いいじゃん別に、読んでなくても。故郷を舞台にしていようが、作者が大作家だろうが、所詮たかが小説じゃないの。読みたくなければ読まなければいい。読んで面白くなかったら途中で放り出せばいい。それでもいつの日か読みたくなったら読めばいい。小説なんてその程度のものだし、その程度だからこそ、ときとして読む者の胸をうち、ごくまれに現実認識を揺るがす力を持つ。だいたい、大学教授という名誉ある地位を捨てて専業作家という国家の余計者になり、新聞小説という金銭的にも文学的にも未開の荒野を、胃を痛めながらも維新の志士のごとき不退転の決意で開拓しようとした漱石が、ただただ後世に定まった評価や権威に則って読まれたとしても、それこそ不本意じゃないのかな。教科書じゃあるまいし、いくら漱石ゆかりの学校だからといってみんなが読まなければいけないということはないだろう。若い人が読書に親しむための環境作りやガイドは大切だと思うけど、中高生にたかだかいち小説を聖典として押しつけることはない。それって漱石的なものからもっとも遠い態度ではないのか。ていうか、なんだかんだ言って四割も読んでるというのは凄いことだと思うのですが。

病院にて

 知人が某病院に入院したので見舞いに行ったのだが、しばらく話をして帰ろうとしたところ、「ただいまより当病院長による回診をおこないます。外出中の患者さんは病室にお戻りください」というアナウンスが聞こえた。なんだろうと思っていたら廊下の向こうから初老の男性を中心にした十人前後の白衣の集団がぞろぞろと急ぎ足で歩いてくる。それがまた廊下狭しと横に広がって歩いているので、すれ違う看護師や見舞客はおのずとモーセの前に身を裂く紅海のごとく道の真ん中を開けて壁際に寄らざるをえない*1。……白い巨塔ですか? いや、これまで大きな病院に足を運ぶことってあまりなかったので初めて目にした。実際にあるんですねえ、あの行進。ちょっと感動した。
 まあ経験豊富なベテラン医師の後について診察をそばで見るのは若い医師にとっていい勉強になるのだろうけれど、いささか異様な光景ではある。あれは。

*1:とはいえ、縦一列になって縦列行進をされてもそれはそれで異様だ。