いじめ自殺問題について『神聖喜劇』の藤堂二等兵(というか大西巨人)を参考にしてみよう

 教室ないし学校を「特殊ノ境涯」として規定し成立させようとしたのは、ほかならぬ日本支配権力・国家主義者であったのである。絶対主義的学校の部分に組み入れられた教師が新入生にまず浴びせかけた言葉は、「学校は、家庭とは訳が違うぞ。」、「貴様は、家におるような気でおるんじゃろう?」、「家庭でならともかく、学校では……。」などであって、また一般人が入学生に与えた言葉も、「学校は世間とは別世界だから、そのつもりで気をつけて……。」の類であった。本質的に別世界であり得ず結局資本制社会・国家の部分である教室を「特殊ノ境涯」とする上からの規定は、彼ら支配権力が「我カ國體ノ精華ニシテ繁育ノ淵源」を「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」(『教育ニ関スル勅語』)として建設した明治初頭以来約一世紀半の間に、国民大衆にむかって強力な現実的ならびにイデオロギー的攻撃として強制せられつづけた。そして支配権力の企図は、成功的に遂行せられたのである。それは、一方では教室をある意味における「特殊ノ境涯」として成立させたとともに、他方では人民大衆の頭に教室を別世界とする固定観念を植えつけた。この固定観念が国民大衆の封建的・後退的な要素と結合していた(そしていまも結合している)ことは、言うまでもあるまい。かくて教室は、言葉の世俗的な意味においてはたしかに「特殊ノ境涯」であったが、その真意においては、決して「特殊ノ境涯」でも「別世界」でもなく、最も濃密かつ圧縮的に日本の半封建的絶対主義性・帝国主義反動性を実現せる典型的な国家の部分であって、しかも爾余の社会と密接な内面的連関性を持てる「地帯」であった。 

 つまり、まずは教室を特殊な一種不可蝕の空間として観ることをやめねばならないのであって、兵営にあって藤堂二等兵がそうしたように、理不尽な仕打ちに対しては法に則った闘争がせられ、加害者に適当な処罰を下し、被害者の権利が守られてしかるべきなのである。軍隊においても学校においても、不当な暴行や人権の侵害は公的な一般社会にあるのと同様に法にもとるのであって、もしもこれらの場においてそれら現実的犯罪行為が「しごき」や「いじめ」などの婉曲的かつ事態隠蔽的なゴマカシの言葉によってウヤムヤにせられるようなことがあれば、それは即ち社会の法一般が蔑ろにせられるのと同断であり、ひいてはこの国のブルジョワ近代司法および行政が、もとよりその内部に村落封建主義的な馴れ合い体質や村八分による秩序維持の精神を護持していることの証左に他ならないのである。ましてや「いじめ」加害者の責任追及よりも自殺する被害者の精神的弱さの糾弾を優先し、その上で父母の恩や彼らの悲嘆を以て自殺を思いとどめせしめることを目論む言説は、まさに「教育ニ関スル勅語」に顕著な天皇制的儒教精神を体現しているものでしかあり得ないのである。

(元ネタ)
 兵営ないし軍隊を「特殊ノ境涯」として規定し成立させようとしたのは、ほかならぬ日本支配権力・帝国主義者であったのである。絶対主義的帝国軍隊の部分に組み入れられた上官上扱者が新入隊兵にまず浴びせかけた言葉は、「軍隊は、地方とは訳が違うぞ。」、「貴様は、地方人のような気でおるんじゃろう?」、「地方でならともかく、軍隊では……。」などであって、また一般人が入隊兵に与えた言葉も、「兵隊は世間とは別世界だから、そのつもりで気をつけて……。」の類であった。本質的に別世界であり得ず結局資本制社会・絶対主義国家の部分である兵営を「特殊ノ境涯」とする上からの規定は、彼ら支配権力が「此時に於て兵制を更め我国の光を輝さんと思ひ陸海軍の制を」(『勅諭』)建設した明治初頭以来約半世紀の間に、国民大衆にむかって強力な現実的ならびにイデオロギー的攻撃として強制せられつづけた。そして支配権力の企図は、成功的に遂行せられたのである。それは、一方では兵営をある意味における「特殊ノ境涯」として成立させたとともに、他方では人民大衆の頭に兵営を別世界とする固定観念を植えつけた。この固定観念が国民大衆の封建的・後退的な要素と結合していた(そしていまも結合している)ことは、言うまでもあるまい。かくて兵営は、言葉の世俗的な意味においてはたしかに「特殊ノ境涯」であったが、その真意においては、決して「特殊ノ境涯」でも「別世界」でもなく、最も濃密かつ圧縮的に日本の半封建的絶対主義性・帝国主義反動性を実現せる典型的な国家の部分であって、しかも爾余の社会と密接な内面的連関性を持てる「地帯」であった。
(「俗情との結託」大西巨人大西巨人文芸論叢 上巻』立風書房所収)