その女、ヒナギクにつき

デイジー・ミラー (新潮文庫)

デイジー・ミラー (新潮文庫)

 表題になっているデイジー・ミラーは、未婚の婦人が男と二人で外出するだけでスキャンダルになったような時代に、自由奔放に振る舞ってヨーロッパの社交界から顰蹙を買う無邪気なアメリカ娘で、アメリカ人でありながら長らくヨーロッパで暮らしたためかヨーロッパ風の堅苦しいモラルが身に染みついてしまった青年ウィンターボーンと彼女の交際を通して、新旧両大陸の相違が描き出されている……という文学史の教科書みたいな説明は面白くもなんともないばかりか、小説の大事な部分を捨象してしまうのだが、感想を短くまとめようとしていつもついこんなふうに書いてしまうところをみると、われながら小中高と習い親しんだ日本の国語テストの方式に毒されているのだなあ。 

(……)異様に聞こえるかもしれないが、ウィンターボーンは、この娘が恋人と落ち合ったのに、自分の存在をうるさがる風をさらにして見せないのがじれったく思えた。それでいて、うるさがってくれればいいと思う自分が、われながら癪にさわった。この娘を、行いの正しい申し分ない令嬢であると見ることはとうていできない。そうした令嬢になくてはならない慎しみ深さが、この娘にはどこか欠けている。だから、この娘は、ロマンス作家が「奔放な情熱」と名づける感情の一つに駆られている女に他ならないのだ、とそんな風に見ることができれば、事はしごく簡単になるというものであろう。自分にいてもらいたくないという様子を見せるのであれば、さまで高く買わなくてすむであろうし、さまで高く買わなくてすめば、この娘の正体はずっと不可解でなくなるのだ。ところが、デイジーは、この場合にも、大胆と無邪気とを一つにした、謎のような態度を持ちつづけるのだった。
(pp.81-82)

 ジョイスプルーストに影響を与えたというだけあって、このあたりの心理描写は秀逸だ。
 デイジーはイタリア人の伊達男との逢い引きにウィンターボーンを伴ってゆき、二人の男を両脇に侍らせてローマの町を散策するのだが、いったい彼女はイタリア男と自分を両天秤にかけているのか、それとも自分に対してあてつけているのか、あるいは単なる気紛れなのか、彼にはさっぱりわからない。わからないから不安になる。そこで、デイジーはイタリア男のことが好きなので、自分が二人の間を邪魔していることをうとましく思ってくれればいいと願ってしまう。そうなれば彼の恋は破れるわけだが、代償として納得と安心を得られるからだ。だがそもそも彼を連れてきたのはデイジーなのだから、そんなことになるはずがない。かくしてウィンターボーンはいつまでたってもデイジーという謎から抜け出すことができない。夏目漱石ならここで「ストレイ・シープ、ストレイ・シープ(迷える羊)」と呟かせるところ*1だが、残念ながら男女の機微を導いてくれるキリストはいないのだ。

*1:三四郎