その女、ヒナギクにつき
- 作者: ヘンリー・ジェイムズ,西川正身
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1957/11/22
- メディア: 文庫
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(……)異様に聞こえるかもしれないが、ウィンターボーンは、この娘が恋人と落ち合ったのに、自分の存在をうるさがる風をさらにして見せないのがじれったく思えた。それでいて、うるさがってくれればいいと思う自分が、われながら癪にさわった。この娘を、行いの正しい申し分ない令嬢であると見ることはとうていできない。そうした令嬢になくてはならない慎しみ深さが、この娘にはどこか欠けている。だから、この娘は、ロマンス作家が「奔放な情熱」と名づける感情の一つに駆られている女に他ならないのだ、とそんな風に見ることができれば、事はしごく簡単になるというものであろう。自分にいてもらいたくないという様子を見せるのであれば、さまで高く買わなくてすむであろうし、さまで高く買わなくてすめば、この娘の正体はずっと不可解でなくなるのだ。ところが、デイジーは、この場合にも、大胆と無邪気とを一つにした、謎のような態度を持ちつづけるのだった。
(pp.81-82)
ジョイスやプルーストに影響を与えたというだけあって、このあたりの心理描写は秀逸だ。
デイジーはイタリア人の伊達男との逢い引きにウィンターボーンを伴ってゆき、二人の男を両脇に侍らせてローマの町を散策するのだが、いったい彼女はイタリア男と自分を両天秤にかけているのか、それとも自分に対してあてつけているのか、あるいは単なる気紛れなのか、彼にはさっぱりわからない。わからないから不安になる。そこで、デイジーはイタリア男のことが好きなので、自分が二人の間を邪魔していることをうとましく思ってくれればいいと願ってしまう。そうなれば彼の恋は破れるわけだが、代償として納得と安心を得られるからだ。だがそもそも彼を連れてきたのはデイジーなのだから、そんなことになるはずがない。かくしてウィンターボーンはいつまでたってもデイジーという謎から抜け出すことができない。夏目漱石ならここで「ストレイ・シープ、ストレイ・シープ(迷える羊)」と呟かせるところ*1だが、残念ながら男女の機微を導いてくれるキリストはいないのだ。