グッバイ、レーニン――クロポトキン書簡三通

 一〇月革命の勝利からほどなくして、国内ではテロが始まった。クロポトキンはこれを座視できなくなった。一九一八年九月一七日、レーニンにあててこう書いた。
 「きわめて深刻な問題、〈赤色テロ〉について話し合うためお会いしたく存じます。これについては、ご自身ずいぶんとお考えになり、悩んだ末に決めたことと思いますが、それでもロシアを愛し革命を愛する私として、またテロに関しあれこれと経験し思いをめぐらせてきた身として、私の姿勢を話すべきだと決心したしだいです。
 あなたにたいする襲撃や、ウリツキーの殺害があったあとですから、あなたの同志たちがいきり立つのもまったく無理からぬことです……。
 とはいえ、大衆には無理からぬことでも、あなたの党の〈指導者たち〉には許されてはならないことです。彼らがやっている大がかりな赤色テロの呼びかけ、人質をとれとの命令、とくに無差別な復讐のため拘留されている人びとを射殺していることは……、社会革命のリーダーたちにはふさわしくありません……。
 政治を統べる者、革命の波頭に立つ者はすべて、日夜政治的暗殺の危機にさらされていることを知らなければなりません。機関車の機関士のように、それが彼らの境遇の特別なところです。外国にいらしたからもちろんご存じでしょうが、政治家はこれに冷静に対処しております。アメリカでは、興奮のるつぼが沸きたったあの瞬間に、政党の主だった指導者たちはみなそうした生きかたをしておりました。
 ……もちろんご存じのように、一七九四年に保安委員会のテロリストたちは、民衆革命の墓を掘る結果となりました。
 騒擾にみちた党人生活のただなかで、フランス革命についての新しい著作をお読みになれたかどうかは知りませんが、こうした事実こそ、目下眼前に展開されているところなのです。一七九三年五月三一日に始まった民衆革命をささえたのは……、大都市の地区組織と地方の国民公会であり、救国委員会とりわけパリ・コミューンに体現された〈参事会〉でした。
 ところが、こうした革命的でときにはすでに建設的なものをはらんでいた勢力とならんで、保安委員会さらには、地区組織すべての内部に警察組織の末端が台頭してきたのです。しかもその警察勢力はテロが始まるや恐ろしく強化され、最初に地区組織を、ついでコミューンさらには救国委員会を併呑してしまったのです。それが委員会をありとあらゆる極端なテロへと、地方でのありとあらゆる蛮行に走らせ、地区組織を解体させて、それを革命の機関から全権をもつ警察の機関に変え、不良分子をのさばらせたのです。かくして一七九四年七月、血に飽きた民衆がジャコバン派から離反し、コミューンがテロリストたちによって解体され、地区組織にゴロツキがたむろするのを見さだめたブルジョアジーは、ブルジョア一派のジロンド党につごうのよい改革に踏み切ったわけです。
 自分たちが何をしているのか自覚していないあなたの同志たちは……、ソヴィエト共和国でまったく同じことをしでかそうとしているのです。
 ロシアの民衆は、創造的で建設的な力を大きくたくわえています。そして、そうした力が新しい社会主義的な原理で生活をきずこうとしていた矢先に……、テロをほしいままに任された警察の捜索の権限が、破壊と死の作業を開始して、建設をすべて台なしにし、生活をきずく能力のまったくない連中を登用している始末です。警察は、新生活の建設者にはなれません。それなのに、どこの町でも村でも警察が、いまや最高の権力になりつつある。                 
 ロシアをどこへ連れてゆこうというのか。最も悪質な反動へ連れてゆこうとしているのです……」。

 ところが『プラウダ』、『イズヴェスチヤ』紙に、エス・エル派のベー・サヴィンコフやヴェー・チェルノフ、白衛軍幹部らが人質にとられ、もしソヴィエト側要人が襲撃されたばあい、「容赦なくこれを処刑する」との報道がのるや、クロポトキンはいっさいの仕事をそっちのけに、ペンをにぎり、寛大な措置をとって「人質作戦とは相容れないはずの純粋な革命の理念」にたちかえるよう、訴えた。レーニンにあて、彼はこう書いたのだった。              
 「こうしたやり口は、中世の宗教戦争という悪しき時代への逆行であり、共産主義の原理にもとづいた未来社会をつくろうとする人間にはあるまじきことであって、共産主義の未来を尊ぶ人間がしてはならないことです。それを同志たちに指摘し、言い聞かせる人間がいなかったのでしょうか。
 人質とはなにか、だれひとり説明しなかったのでしょうか。人質は、なんらかの罪状で罰をこうむって入獄したのではありません。敵に向かってこいつを殺すぞとおどかすために拘留されているのです。
 ……これは、毎朝人間を刑場へ引きだしておきながら、〈まだだ、今日じゃないぞ〉と言うのと、同じではないでしょうか。こうしたことが、人質やその家族にとっては拷問の復活にひとしいことが、あなたの同志たちにはわからないのでしょうか。権力の座にある者も生きてゆくのはたいへんなのだ、などと言ってほしくありません。こんにちでは、王侯連中でも命を狙われるのは〈彼らの置かれた立場の特殊性〉だと見ているくらいです。
 ところで革命家たちは、ルイーズ・ミシェルがやったように、自分たちの命を狙った人間を法廷では弁護するのです。あるいはそうでなくとも、マラテスタやヴォルテラン・デ=クレールのようにそれを迫害したりはしないものです。王侯や教会権力でさえ、人質のような野蛮な自己防衛の手段はさけてきました。新生活を提唱し、新たな社会を建設する人間に、どうしてこんなやり口にうったえたりできるのか……。
 これは、あなたがみずからの共産主義的実験を失敗とみとめ、もはやあなたにとっても貴重なはずの生活の建設ではなく、自分自身を救おうとしているのだと思われないでしょうか。
 あなたがた共産主義者は、たとえどのような誤りをおかそうと、未来のためにこそ働いているのであって、だからこそいかなる場合にしろ、動物的恐怖にひとしい行為でもって、その事業をけがしてはならない。そのことを、あなたの同志たちは自覚していないのでしょうか……。あなたがたの最良分子には、共産主義の未来のほうが自分の命よりも尊いものと信じております。この未来に思いをいたすなら、こうしたやり口をあなたがたは排除されるはずです。
 大きな欠陥が多々あるにしろ、ごらんのとおり私はそれを如実に目撃しているわけですが、一〇月革命は巨大な前進をはたしました。西ヨーロッパでは、社会革命は不可能と思われはじめていましたが、そうでないことを示してくれました。しかも、多々欠陥があるにもかかわらず、平等の方向へむかって前進をとげつつあり、過去へ回帰しようとする試みもこれを押し止めることはできないでありましょう。
 社会主義にも共産主義にも無縁な欠陥、旧体制とすべてを滅ぼし尽くさねば気のすまない権力に固有の旧悪、そうしたものの残りかすによって破滅する道へ、なぜ革命を追い込もうとするのでしょうか」。

 会談の終わりに、レーニンは「革命時におかしてはならない」誤りについて、クロポトキンに書いてよこすよう申し出ている。
 クロポトンはその申し出を請けて、一九二〇年三月四日にレーニンにあてて手紙を書き、生活を維持することもできない俸給で暮らしている、地方の勤務員たちのひどい窮状を訴えた。地方で起こっている餓死やその他の惨状にふれ、最後にこう結んでいる。
 「われわれが目下直面している事態から脱するには、ひとつしかありません。もっと正常な生活状態に早急に移ることです。こうした事態は長くはつづきませんし、いずれは流血のカタストロフィーにゆきつくでありましょう。同盟国からの機関車も、そもそもわれわれ自身に必要なロシアの穀物や麻、アマ、皮革を輸出したところで、住民の助けにはなりません。たとえ党の独裁が資本主義体制に打撃をあたえる(この点、私は強い疑問をおぼえます)に格好の手段だとしても、新たな社会主義体制をきずくうえでは、文句なしに有害です。地方の建設、地方の勢力が必要不可欠なのに、それがありません。どこにもないのです。そのかわりに、実状をまったく知らぬ人間たちによって、一歩ごとに粗維きわまりない誤りが重ねられ、おかげでたくさんの生命が失われ、多くの地域が危胎に瀕するはめになっております。
 ……地方勢力の参加がなければ、下からの、そもそも農民と労働者たちによる建設がなければ、新生活の建設はできません。
 このような下からの建設こそ、本来ソヴィエトが果たさなければならないものと思われます。それなのに、ロシアはすでに名目だけのソヴィエト共和国になりさがってしまいました。『党』の人間が、大半が新たに生まれた共産党員たちですが(観念的で、中央の連中に比較的多い)、群がり集まって牛耳っており、ソヴィエトというこの将来性のある機関の影響力と建設力を、早くも排除してしまいました。いまやロシアを支配しているのはソヴィエトではなく、党委員会です。その建設は、官僚による建設という欠陥にあえいでおります。
 いまのような混乱からぬけ出すには、ロシアは地方の勢力の創造力にすがるしかありません。これこそ、新生活をきずきあげるファクターになれるものと思います……。こうした脱出策の必要性が早急に認識されればされるほど、よいでしょう。いまの状態がこのまま続くなら、そもそも『社会主義』という言葉自体が呪いになりましょう。ジャコバン派の支配から四〇年を経て、フランスで平等の観念がそうなったのと同じです。
                同志としてのあいさつをこめて
                           ペー・クロポトキン

 しかし、病床の彼をなおも悩ませ苦しめていたのは、無力感と懐疑であったと思われる。この革命のネガティヴな現状を突き抜けて、どのようにして自由なコミューンの世界をロシアの民衆のために切り拓くことができるのか。文章を書くという自分に残された最後の武器によって、はたしてそれが可能だろうか……。そうした自責の念や思いつめた想念がクロポトキンから眠りを奪うこともしばしばだった。そんなおり、彼は夜を徹して「アナーキズム的なコミューンの将来計画」を書きなぐるのだった。そのあとにかならずやってくる激しい虚脱と疲労にもかかわらず、クロポトキンはそうせずにはいられなかったのである。そしてまたもや、疲労のあげくに襲ってくるのが、「書いて書いて、書きまくっても、何もかもむなしい……」との思いであった。
 こよなく音楽を愛し、「世界が破滅してもベートーヴェンの第九交響曲は残る」と語ったバクーニンは、結局最後には音楽家に看取られてこの世を去った。クロポトキンも、大の音楽好きであった。死が直前に迫っているなかで、見舞い客のたえた時、クロポトキンはペリーニの『ノルマ』をくりかえしくりかえし独りで弾いていたという。これは、若くして失った実母が好んで弾いていた曲であり、時には二時間も休みなしに演奏してピアノの前を離れなかった。そんなおり、クロポトキンは母の思い出に浸っていたのだろうか、涙をうかべながら弾いたことを述懐している。娘婿のレベヂェフも演奏にたけていて、一度は見舞いがてらにスクリャービンの「左手のためのエチュード」をかなでて、クロポトキンをひじょうに喜ばせた。
 いよいよ死期が近づいたころ、クロポトキンは外界にたいしほとんど反応を示さなくなり、すっかり寡黙になった。長い沈黙に不安をおぼえ、耐えられなくなった周囲の付き添いに、クロポトキンはぽつんと答えるのだった。「もう何もかも、どうでもよくなってしまったよ」。ジュネーヴ以来の神経痛、心臓発作の激痛に加え、肺炎による咳と高熱がクロポトキンに最後の打撃を用意していったのである。「死ぬって、ほんとうに大変なことなんだね」、このひとことが寂しい死を強制された老革命家の最後に口にした言葉であった。
 悲劇はこれで終わらなかった。クロポトキンの永眠からわずか一か月後に、ロシアの国内をゆるがした例のクロンシュタットの蜂起が発生し、やがて鎮圧されて終わった。(「解説とあとがきにかえて」pp.353-354)

クロポトキン伝 (叢書・ウニベルシタス)

クロポトキン伝 (叢書・ウニベルシタス)