エミール・ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』

ボヌール・デ・ダム百貨店―デパートの誕生 (ゾラ・セレクション)

ボヌール・デ・ダム百貨店―デパートの誕生 (ゾラ・セレクション)

 それにしても久しぶりだなあ、更新するの。さいきん眠くて一気に本を読む気力が減退しているので、この機会にずっと敬遠していたゾラの小説をいくつか時間をかけて読んだ。これはそのうちのひとつ。
 それで、以前から思っていたのだが、ゾラの小説は19世紀フランスの社会や文化(というよりその表象や当時の人びとの心性)を知るにはうってつけの資料だが、小説としては読んでいて眠くなるというのが私の感想だ。
 しかし、少し古いデータではあるが、フランスの高校生の間ではユゴーやデュマを差しおいてゾラがいちばんの人気作家だという、ル・モンドのアンケート結果もあるからあなどれない。翻訳大国を自称する日本において、彼ほどの大家であるにもかかわらず未訳の作品が多いのは*1ユゴーバルザックに比べても異例の不遇な扱いといえるだろう。

その幸福は誰のものか

 フランス第二帝政下のデパートを舞台にした小説を書くにあたって、その店を「ボヌール・デ・ダム(ご婦人がたの幸福)」と名付けたゾラのネーミングセンスはまったく時代に沿っており、かつ皮肉だった。
 百貨店とはいっても、原語は grand magasin であり、直訳すると「大きな店」ぐらいの意味しかない。さらに当時のグラン・マガザンは現在のようにありとあらゆる分野の商品を扱うまでにはなっておらず、総合衣料品店とでもいうべきものだった。つまり、それまで「靴屋」「帽子屋」「布地屋」などに分類された小さな商店で各個に売られていた異なる種類のモノを一同に会したのである。そして、そこで扱われていた衣料品は主に女性向けだった。
 なぜかというと、グラン・マガザンの主な購買層であるべきブルジョワ階級の男性は、ボードレールが「喪に服する性」と名付けたように、黒いシルクハットに黒い燕尾服に黒い靴に黒いコートと、全身黒ずくめの格好をしていたため、あまりお洒落をする余地がなかったからである。ホイジンガにいわせれば、これはブルジョワ男性たちの「真面目さの象徴」*2であり、アンシャン・レジーム期の怠惰で華やかな王侯貴族や、規律正しくなくうす汚い労働者や農民と自分たちの違いを際立たせるためのディスタンクシオン(卓越化・差違化)だった。その中にあって派手な格好や奇抜な装いをあえてすることは、不真面目さの表れにほかならず、ブルジョワ階級の規範から逸脱しているとみなされてしまうのである。現代でもそうであるように、モードというのはシーズン毎に新しさを売り物にしなければならないが、当時のブルジョワ男性の服装には、カフスボタンなどの細かい部分を除いて新しさや差異が入りこむ余地はほとんどなかったのだ。
 そこで、文字どおり男たちの代理として華美な服装を引き受けたのが、彼らの妻や娘(あるいは愛人)である。彼女たちはもちろん自分の欲望を満たすために百貨店で散財し、衣服や装飾品を買い求めるわけだが、妻や娘が高価な衣服で美しく飾り立てているということは、とりもなおさず女性たちの夫(愛人)あるいは父である男性の経済的豊かさや社会的地位を誇示する指標になるからである。舞踏会やサロンに着飾った女性を伴って足を運び、彼女たちを見せびらかすのが、同一階層内におけるブルジョワ男性の服装による競争の方法だった以上、ご婦人がたの幸福はまた紳士諸君の幸福でもあったわけだ。
 作品の中でボヌール・デ・ダム百貨店は、周辺の暗くて狭くて古い小商店と比べ、明るくて広々とした新しい大商店として対称的に表現されている。むろん、前者が衰退する運命にあることは言うまでもない。店内が暗くて狭い既存の小商店が、顧客をグラン・マガザンに奪われて時代の闇に埋没していくのと反対に、ボヌール・デ・ダムでは夜でも飾り立てられたウインドーがライトアップされ、街行く女性たちの目を引く役割を果たすのだが、それはまさしく誘蛾灯の光であり、引き寄せられて散財する女性たちは飛んで火にいる夏の虫なのである。店主のオクターヴ・ムーレ曰く「なぜ客に目の保養をさせようとするんだ? 怖れることはない、目を眩ませるのだ」*3
 ゾラがボヌール・デ・ダム百貨店の店主・オクターヴ・ムーレを、女性を籠絡することに長けたプレイボーイとして設定したのは偶然ではない。なぜならグラン・マガザンで〈もの〉を売るために必要な手管は、女性を〈もの〉にするのと同じく、いかに自分に向けて欲望を掻きたてさせるかということだからであり、作品の中でムーレは何度もそう明言している。
 当時の女性が肉体的にも権利のうえでも男性の所有物であったのと同じく、彼女たちの欲望も幸福もまた、男性や資本によっていわば他有化されたものなのである。そもそも、女性たちが争って新商品を購入し、麗々しく着飾るのはなんのためか。彼女たちが水面に映る自らの姿に見とれるナルシスではないのならば、他人とりわけ男性に対して自分を美しく見せる(あるいは、自分はほかの女性とは一味違うのだと知らしめる)ためにほかならない。つまり、男性のまなざしを内面化し、それに従っているということである。ムーレは男として、また商人として、女性たちが内面化した他者つまり男性の欲望を利用したのだ。
 現代は男性もまた女性のまなざしを内面化し、せっせとオシャレに励むようになったわけで、デパートは男女両性の相互的な幸福になったわけだが、さりとてそれが消費社会の枠組みや差違に基づくカースト形成・優越感の醸成に回収されてしまう仕組みは変わりなく、これをただ男女平等といって慶賀してよいものかどうか。

  • 参考文献

おしゃれの社会史 (朝日選書)

おしゃれの社会史 (朝日選書)

デパートを発明した夫婦 (講談社現代新書)

デパートを発明した夫婦 (講談社現代新書)

*1:特に後期の『四福音書』や『三都市叢書』の各シリーズ

*2:確か『ホモ・ルーデンス』の中のフレーズだったと思う。

*3:『ボヌール・デ・ダム百貨店』伊藤桂子訳、論創社、p.60