シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』

自由と社会的抑圧 (岩波文庫)

自由と社会的抑圧 (岩波文庫)

 ずっと前に読んだ覚えがあるのだが、内容はほとんど忘れていることもあって、文庫化されていたのを期に読み返してみる。そういえば訳者の冨原眞弓氏はこの間読んだ『ムーミンのふたつの顔』の著者じゃないですか。ヴェイユムーミン、守備範囲が広いなあ。
 読んでみればなるほど、わざわざこの時期に文庫化した岩波書店の意図がなんとなくわかるような気がする。岩波書店というのは、ときどき「いまだにこんな旧左翼みたいなこと言ってんの」みたいな本を出したり、雑誌(『世界』)記事を掲載したりもする、振幅の激しい出版社なのだけど、これは今の日本社会と照らしあわせてもわりあいタイムリーな内容だ。

 加えて、個々の権力者が首尾よく捌かねばならぬふたつの闘争、すなわち自身が支配する人びとにたいする闘争と自身の競合者にたいする闘争なのだが、この両者は解けがたくむすびつき、互いの火種に油を注ぎあう。いかなる権力であっても、外部で得られた成功によって、たえず内部の結束強化をめざさねばならない。それらの成功は、当の権力に従来にもまして威力のある強制手段を与えるからだ。さらに競合する相手との闘争は、その流れのなかで配下の奴隷たちを集結させる。奴隷たちは奴隷たちで、主人の闘争の結末に自分の命運が絡んでいるという幻想をいだくからだ。ところが、闘争の勝利に欠かせない服従と犠牲とを奴隷からとりつけるために、権力はいよいよ抑圧的にならざるをえない。このあらたな抑圧を可能にするために、いよいよ抗いがたく権力は外部にむかわざるをえない。かくて連鎖はつづく。逆の一環から始めても同じ連鎖をたどれる。すなわち、ある社会的集団が併呑をもくろむ外的権勢に逆らって自衛しうるには、みずからが抑圧的な権威に服していなければならず、かくて確立した権力が居座りつづけるためには、競合する権力との紛争をたえず煽りたてねばならぬからだ。そして、ふたたび連鎖はつづく。こうして、なによりも忌避すべき悪循環が、社会全体にその主人たちのあとを追わせ、常軌を逸した輪舞へとひきずりこんでいく。(p.53)

 むろん、現在起きていることは、(少なくとも日本では)領土の併合をもくろむ武力による侵略ではなく、おもに経済的な競争であるわけだが、基本的な構図はほとんど変わらない。
 闘争に勝ち抜くための運命共同体として、個々の利害や思想の対立など、様々な立場の違いを超えて人々が糾合され、外部に向かって一致団結するという、超国家主義がいままた徐々にだが芽生えつつあるように感じられる。しかもそれはカウボーイが暴れる牛に縄をかけるように力づくではなく、市場で売られるとも知らずに羊が自ら荷車に乗り込むかのように、有権者の自由な選挙によって成立した民主的な政府や、言論の自由を標榜し、かつ享受するマスコミによってなされるのであり、とどのつまりわれわれは自発的に奴隷となるのだ。仮に主人が闘争に勝ったとしても、どのみち自分は不利益を蒙るのではないかということに気づきもせずに。あるいは、自分と自分の属する集団が共に勝利と利益を得るとしても、その陰で抑圧され犠牲を強いられるひとびとが(内にも外にも)いるかもしれないということに思いを馳せることもなく。
 そうした社会では、そもそも現行の社会制度の根本に関わる異議申し立てなどは、それこそ「常軌を逸した」異常な考えだとして問答無用で切り捨てられてしまう。とはいえ、たしかに実際問題として現今の制度が抱える諸問題を一挙に解決できる名案などあるはずもないし(もしそんなものがあったらノーベル賞なんか百万個授与されても足りない)、そういうものを無理にでも求めようとすれば結局はディストピアに行き着く。
 ではヴェイユさんに言わせればどうすればよいのかというと。

 われわれは現今の諸悪にたいして完膚なきまでに無力である。ひとたびこれを理解するならば、自身が直接その打撃にさらされる瞬間はべつとして、現状を苦慮する責任はまぬかれる。とすれば、現代文明の財産目録を作るべく尽力し、かかる未来を方法的に準備すること以上に崇高な責務があるだろうか。じつをいうと、これほどの責務は制限にみちた人間の生の可能性をはるかにこえている。他方、かかる道程に踏みだす人間は、まちがいなく精神的孤独と周囲の無理解を覚悟せねばならず、確実に既存秩序の敵対者からも奉仕者からも敵意を招くだろう。そのうえ、現在のわれわれと未来の世代の人びとを隔てる厄災にもかかわらず、今日の孤独な精神が鍛えあげた概念の断片を、場合によっては、未来の世代に偶然がとどけてくれると想定してよい根拠は、まったくない。
 しかし、このような状況を嘆くのは愚かしい。神の摂理と交わしたいかなる協定も、もっとも高邁な努力にたいしてすら有効性を確約できなかったのだから。もしも人間が、自分の内部でも周辺でも、その努力をなしとげた当人の思考のうちに源泉と原理を有する努力しか信頼しないと決意するならば、呪術的な操作に頼って、個々人のもつ微々たる力で偉大な成果を導きだすことを希うなど、いかにも笑止千万である。意志堅固な魂が、たったひとつのなすべきことを明確に了解するならば、断じて上述のような理由で幻惑されたりはしない。肝要なのは、現代文明のなかで、個とみなされる人間に権利として帰属するものと、人間に逆らい集団に武器を与える性質のものとを切りわけて、後者にかかわる諸要因を抑制し、前者にかかわる諸要因を発展させようと努めることだろう。(pp.142-3)

「求めなさい。そうすれば与えられる」*1ではなく、「求めなさい。そうしたからといって与えられるわけでない。それでも、求めなさい。」といったところか。しんどいなあ。
 ヴェイユの場合は多分に信仰が倫理の基盤にあるわけで、この狂おしいまでの個人主義に対する情熱(パッション)も、やっぱりヨブ的な受苦(パッション)と軌を一にしているので、信仰を持たない人間にはついていけないほど峻厳なところがある。彼女の工場日記を読んでいると、そこまで無理しなくてもいいだろうと思い、どうにもいたたまれなくなってしまうくらいだ。 
 しかしそれでも、「個とみなされる人間に権利として帰属するものと、人間に逆らい集団に武器を与える性質のものとを切りわけて、後者にかかわる諸要因を抑制し、前者にかかわる諸要因を発展させようと努めることだろう」というくだりには同意する。
 さて、とりあえず明日の選挙はどうしましょうかねえ。

*1:マタイ福音書7章7節、ルカ福音書11章9節