奥泉光『モーダルな事象』
- 作者: 奥泉光
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2005/07/10
- メディア: 単行本
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文藝春秋の『本格ミステリ・マスターズ』シリーズの一冊として刊行されてはいるのだけど、そこは奥泉光だけあって、ベタな推理小説には徹していない。正統的なミステリとSFと文学論(文学批判)が、うまく同居している。
大学教授が出てくるからというわけではないけど、筒井康隆の『文学部唯野教授』とも通じるところがあるような気がする。そういえばふたりともメタフィクションをよく書くし、ジャズ好きだし、自分で管楽器も演奏するし(奥泉光はフルート、筒井康隆はクラリネット)というわけで、どこか小説に対する問題意識も似ているのかも。
とここでふと思いついたことを書くと、推理小説界に「新本格」という用語があるように、なにかとレッテル貼りがはびこる日本では、フォービートのハードバップから抜け出して〈モーダル〉な手法を演奏に取り入れたジャズ・ミュージシャンたちを「新主流派」と呼ぶのだけど、奥泉光の立ち位置は彼らよりもむしろエリック・ドルフィーに似ているように思えてならない。
エリック・ドルフィーはジャズ史において完全なフリージャズに属するわけでもなく、さりとて保守的なハードバップというわけでもなく、それらの中間で両者を橋渡しするような微妙な位置づけだ。こう書くとなんだか中途半端な折衷的ミュージシャンのような印象を持たれてしまうかもしれないけど、決してそうではなく、個性的ですぐれたジャズマンであることは間違いない。それにドルフィーもフルートを吹くことだし。
まあこれはあくまで思いつきのアナロジーにすぎないけれど、奥泉光がバルザックばりの人物再登場の手法を使ったり*1、十九世紀以前に主に使われた語りの手法を利用したりして、古い文学的伝統を現代文学の最前線で活性化させようとしていることを、エリック・ドルフィーの演奏に比してもさほど的はずれではないだろうと思うのだがどうでしょうか(って誰に聞いてるんだ)。ジャズファン以外にはわかりにくい話ですいません。
ところで、本のなかに『文藝春秋の新刊』という広告ビラ*2が挟まっていたのだけど、『モーダルな事象』のすぐそばに齋藤孝の『ハイライトで読む美しい日本人』がでかでかと掲載されているのは、皮肉というかなんというか。
宣伝コピーによれば「美しい日本人の感性を身体に埋め込む感動のテキスト集 上機嫌で子ども天国。気配り上手で腰肚が強い! ラフカディオ・ハーンから谷崎潤一郎まで日本人の感性に目覚めるテキスト集」だそうですが、この小説が批判しているのはまさにそういうものなんだよね。
(中略)監修者といたしましては、今度の作品集を、とりわけ育ち盛りのお子様方に勧めたく存じます。ちょっとしたことで目一杯感動できる豊かな心。何が何でも感動してやろうと油断なく身構える、貪婪な獣のような繊細な心遣い。それこそが、私たちの生まれたこの国、マジ美しい日本を支える財産なのではないでしょうか〉
『モーダルな事象』pp.404-405