Charles Baudelaire“Assommons les Pauvres!”(4/21追記)

 またボードレールの翻訳。今回は『パリの憂鬱』の中で私が一番好きな、というか印象に残っている詩。既約を参照してないのでとんでもない誤訳がありやしないかヒヤヒヤする。

貧乏人を殴り殺せ!


 二週間のあいだ私は自室に閉じこもって、当時(十六、七年前のことだ)流行りの書物に取り囲まれていた。それらの書物というのは、大衆を二十四時間で幸福、賢明そして裕福にする技術を扱ったものである。私は消化した――というよりも鵜呑みにした、つまり、公共の福祉を企図する全ての人々――貧民たちに奴隷になれと忠告する人々、お前たちはみな廃位された王だと説き伏せる人々――の苦心の末の愚論をだ。――その頃の私が錯乱あるいは痴愚に近い精神状態にあったことを驚くことはなかろう。
 私は、近ごろざっと目を通した辞書にあった淑女のしきたり全てより高尚な、ある観念のあえかな芽生えが、私の知性の底に閉じこめられているような気がしてならなかった。しかし、それはある観念の観念、ごく漠然とした何かにすぎなかった。
 私は大きな渇きを抱いて外に出た。というのも愚劣な読書に対する情熱的な意欲は、それに応じた大気と清涼剤に対する欲求を引き起こすからだ。
 私が居酒屋に入ろうとしたところ、一人の乞食が、もし精神が物質を動かし、催眠術師の眼が葡萄を熟させるのならば、それは王位をも転覆させるであろうという猛烈な忘れられない視線を添えて、私の前に帽子を差し出した。
 同時に、私は耳にささやきかける声を聞いた。よく聞き知った声、それはどこでも私についてくる守護天使、さもなければ守護悪魔の声だった。ソクラテスだって守護悪魔を持っていたのだから、どうして私が守護天使を持っていないということがあろうか、またソクラテスのように、鋭敏なレリュや思慮深いバイヤルジェが署名した、精神錯乱の資格証明書を手に入れる光栄に浴してはいけないということがあろうか? 
 ソクラテスの悪魔と私の悪魔のあいだには、ソクラテスのそれが彼を守り、警告し、邪魔するためだけに現れるのに対し、私のそれは助言し、提案し、説得してくれるという違いがある。哀れなソクラテスは禁止者としての悪魔しか持たなかったが、私のそれは偉大なる肯定者であり、行動の悪魔であり、闘争の悪魔なのだ。
 さて、その声が私にこう囁いた。「他人と平等であるのは、そのことを証明する者だけだし、自由に価するのは、それを征服することができる者だけだ」
 即座に、私はわが乞食に飛びかかった。たったこぶし一撃で彼の片目をつぶしてしまったのだが、それは一瞬にしてボールのように腫れ上がった。彼の歯を二本折るのに、自分の爪を一本割ってしまったうえに、生まれつきひ弱で、ボクシングの経験もほとんどなく、この老人を速やかに殴り倒すほど自分は屈強ではないと感じていたこともあって、片手で彼の衣服の襟を握り、もう片方の手で喉をつかんで、彼の頭を力一杯壁にぶつけだした。白状しなければならないのだが、私は事前に目の届くあたりを調べて、こんな人気のない町外れなら、かなり長いあいだ、警官の巡回はなかろうと確かめておいた。
 次いで、肩胛骨を折るに十分な勢いの蹴りを背中に加え、この弱々しい六十絡みの爺さんに土を舐めさせると、地面に転がっていた太い木の枝を手にとって、ビフテキを柔らかくしようとする料理人のように、執拗なまでの根気でもって彼を打ちすえた。
 すると突然――なんたる奇跡! おお、自らの理論の素晴らしさを実証した哲学者の喜び!――私はその老いぼれた身体が体勢を変え、ひどくボロボロの節々に私が想像だにしなかった力を込めて立ち上がるのを見た。そして私には吉兆と映った憎悪の眼をして、老いさらばえた盗賊は私に飛びかかり、両目を殴って腫れ上がらせ、四本の歯を折り、同じ木の枝で何度も叩きのめした。――私の力ずくの治療が、彼に自尊心と生命力を取り戻してやったのである。
 そこで、議論は終わったと私が考えていることを彼に理解させるために何度も合図して、ストア派ソフィストの満足感とともに立ち上がると、私は彼に言った。「ムッシュー、あなたは私と対等ですよ! どうか私の財布をあなたと分かち合う光栄をお許しいただきたい。そして、覚えておきなさい、もしあなたが真に博愛家であるならば、あなたの同胞に施しを求められたとき、私が苦しみつつもあなたの背中に試みた理論を、全員に適用しなければならないと」
 彼は私の理論を理解し、私の助言に従うことを固く誓った。

http://baudelaire.litteratura.com/le_spleen_de_paris.php?rub=oeuvre&srub=pop&id=187

 「大衆を二十四時間で幸福、賢明そして裕福にする技術を扱った」本というのは、今でも流行っていますナ。
(ちょっと追記)
 この詩はおそらくボードレール晩年の1865年ごろ書かれたものと考えられているので、その十六・七年前ということは、おおよそ一八四八年から四十九年ごろと考えられます。ということは、一八四八年の二月革命の余塵さめやらぬ頃のことなのかもしれません*1。革命に際して、ボードレールはブランキ主義者の組織に名を連ねたり、暴動に加わったり、短命に終わりはしましたが革命派の新聞を出版したりしています。この革命は、ルイ・フィリップ七月王政を打倒して第二共和制を切り開いたもので*2、フランスにおける最後の成功した革命だったわけですが、その原動力となったのがパリの労働者たちでした。
 しかし、労働者といってもおおまかに分けて二種類ありました。一つは、職人の親方や小商店主などの上層労働者、もう一つは、文字どおり徒手空拳の、賃金労働者や徒弟職人などの下層労働者です。どちらかというと前者は支配階層であるブルジョワに近いわけですが*3、後者はむしろブルジョワ共和主義者からは王党派やボナパルティスト以上に警戒されていた嫌いがあります*4
 というのも下層労働者にとって、革命はブルジョワ革命では飽き足りません。低賃金・無保障で長時間の重労働を強いられる境遇が変わらない限り、言論の自由参政権が与えられたところで、彼らにとっては腹の足しにもならないからです。そこで、法の下の平等を越えて、経済的な平等、あるいはそこまで行かずとも待遇の改善を要求する運動が勃興するのは避けられない趨勢でした。それがイギリスに追いつき追い越すためによりいっそうの資本蓄積を目論むブルジョワにとって有難くないことは言うまでもありません。当時はまだ、従業員の福利厚生の必要性や、それによる作業能率の向上との関係が経営者の間では一般に認められていませんでした。
 ラマルチーヌを首班とする臨時政府も社会主義的な思想を持つルイ・ブランを迎え、国立作業場を設けて失業者の救済を図るなどの対策をうちだしはしましたが、いろいろあってうまくいかず*5、早くも四月には地主・農民層の支持を失ったルイ・ブランが選挙で落選してしまうなど失政が続き、労働者たちの新政府に対する不満は爆発寸前になってしまいます。六月には国立作業場の閉鎖に反対して決起した労働者たちを、カヴェニャック将軍率いる政府軍が弾圧・虐殺し、これ以後ブルジョワ共和政府と労働者たちは敵対関係に入っていくことになります。ルイ・ボナパルトの大統領就任からクーデターと皇帝即位がすんなり成功したのには、共和政府や国民議会議員に対する労働者大衆の不信感や憎悪が一役買ったことはまちがいないでしょう*6
 こういった歴史的背景を念頭に置かないと、tous ces entrepreneurs de bonheur public, - de ceux qui conseillent à tous les pauvres de se faire esclaves, et de ceux qui leur persuadent qu'ils sont tous des rois détrônés(公共の福祉を企図する全ての人々――貧民たちに奴隷になれと忠告する人々、お前たちはみな廃位された王だと説き伏せる人々)という一節をうまく呑み込むことはできないかもしれません。
 入り組んだ路地を取り潰してバリケードの設置を困難にし、反乱や革命を未然に阻止する一方で、父性的温情主義政策によって労働者階級を手なずけようとした第二帝政期末にこの詩を書いたボードレールは、自らが主翼を担った革命の帰趨に失望して武器を手に街路を埋めた大衆の姿と、その結果流された大量の血を思い起こしていたのかもしれないのです。 

*1:ついでに言えば、一八四八年はマルクスエンゲルスの『共産党宣言』が発表された年でもあります。

*2:まあ、数年後には第二帝政にあっさり移行するわけですが。

*3:とはいえ、産業や商業の近代化が進む過程で、彼らの多くも没落してゆくのですが。

*4:ルイ・シュヴァリエ『労働階級と危険な階級』を参照

*5:そもそも、うまくいかせようとする意図が政府にはなかったとも言われるのですが。

*6:このあたりのことは、カール・マルクスの『フランスにおける内乱・階級闘争』『ルイ・ボナパルトブリュメール一八日』や喜安朗『夢と反乱のフォブール』『パリの聖月曜日』、谷川稔『フランス社会運動史』などを参照。