「劇場」を構成するのはなにか

 わたしは、いままで何人かの政治家と話したことがある。その特徴は、「他人の話を聞かない」こと。つまり、こちらが「Aについてどう思いますか?」訊ねると、「はい、Bはですね」と答える。まるで話が噛み合わない。というか、まるでこちらの話を聞いているとは思えない。なぜなのかと考えてみたが、要するに、彼らにとって、なにかをしゃべるということは、「自分の意見を発表する」ことなのだ。つまり、演説をするということ、あるいは、舞台の上でセリフをしゃべるのと同じことなのだ。いちいち、観客の声に耳をかたむけていては、演説できない。なので、話を聞いているふりをしつつ、ただもう自分の意見を滔々としゃべる。
 そんな政治家のシンボルが、小泉純一郎ということになるだろう。
 自分が苦手なこと、反発を受けるようなこと、いままでいってきたことと矛盾しているようなこと、そういう質問が来ると、彼は必ず「適切に処理します」という。これも、彼の名セリフの一つだ。
 なにも答えたことにならない「適切に処理します」、中身が一つもわからない「改革をやらせてください」、そんなセリフを連発しながら、それでも彼の人気は続いていく。
高橋源一郎の時には背伸びをする2005-09-17 号 「 小 泉 劇 場 」 観 戦 記)

 鏡のような道具によっては見ることができない自分の現実を納得して知ることを可能にするのが、他人との論議である。他人は簡単に私が見ることができない私の背中を見ることができるからである。背中の代わりに観念をおいても事態は同じである。人は自分の観念について自分自身にとっての真実を主観的に確信できるとしても、その主観的確信を複数の他者たちに、ひいては万人に通用するという意味での客観性にまで上昇させることはできない。それができるには、自分の殻を抜け出て他人たちとの論議的言説過程(対話的弁証法とも言える)に進み出る必要があるし、それで十分である。
今村仁司『抗争する人間《ホモ・ポレミクス》』講談社選書メチエ、p.213)

「人は自分の観念について自分自身にとっての真実を主観的に確信できるとしても、その主観的確信を複数の他者たちに、ひいては万人に通用するという意味での客観性にまで上昇させることはできない」。だからこそ対話というものが必要とされるのであり、演説や公演の後には質疑応答やディスカッションがあるのだし、国会には党首討論もある。ついでにブログにもコメント欄なんてものがついていたりする。
 しかし、小泉首相に代表される種類の政治家やその支持者にとって、「主観的確信を複数の他者たちに、ひいては万人に通用するという意味での客観性にまで上昇させる」ことなどにおそらく興味はないのであり、ただ舞台上から自分の主張・主観を述べ、観客がそれに共感しさえすればいいのだろう。
 では、小泉首相のように、公約を守らなくても大したことではないと公言し*1、またその言葉どおりに行動してきた政治家の主張をどうしてテレビや新聞などのマスメディアが無批判で垂れ流し、利益誘導のおこぼれに与るわけでもない多くの有権者がそれに共感してしまうのだろうか。
 結局のところ、「他人の話を聞かない」のは政治家だけではなく、有権者も同じなのではないだろうか。はたしていったいどれだけの有権者が政治家の言葉を聞いているのだろうか。公約を守るも守らないも、そもそも公約の内容を知っているだろうか。
 かくいう我が身を振り返ってみても、はたして私は前回の選挙における各党の公約(マニフェスト)をどのように評価し、それらをどれだけ覚えていて、政権をとった政党がそれをどれだけ遵守あるいは実行してきたか不断の検証を厭わなかっただろうか、そして実施した政策が社会にどのような影響を及ぼしたか見極める努力をしてきたかと自問すると、ほとんど恥じいるほかない。やれマスコミが批判精神に欠けているだのなんだのと偉そうに言えた義理ではないのである。たとえマスメディアが「翼賛」的な論調をとっているとしても、読者が事実報道に注意深く目を通し、マスコミ以外のメディアとも照らしあわせて検証したりすれば、それを鵜呑みにする危険性はなくならないまでも、減少するだろうから。
 役者が名演技をすれば拍手喝采し、下手な演技をすれば舞台に背を向けて席を立つ。そうすることによって役者の演技は鍛えられるのではないか。どんな下手な演技にも賞賛を送るのは、「ほめ殺し」にほかならない。それではいつまでたっても役者は育たないし、観客もすぐれた演技を見ることができない。「劇場」は役者(政治家)と舞台(マスメディア*2)だけでは成り立たない、つねに観客(有権者)が必要とされるのであり、芝居が成功するかどうかはそれこそ「三位一体」にかかっているということを忘れてはならない、と自戒したりしなかったりする今日この頃である。

*1:確かに、公約に縛られてしまい、選挙後に起きた社会の変化に対応できないような場合、公約に反する政策をとることも場合によってはやむをえないこともあるかもしれないが、選挙前から懸案になっていた問題を解決できなかった結果公約を破ることになったのに堂々と開きなおるのはどんなものだろうか。

*2:本当は政治家の舞台は国会なんだろうけど、現代では事実上メディアになってしまっている。せめてメディアにはそのことに自覚的であってほしい。「小泉劇場」って他人事みたいにいうけど、出し物はともかく、それをのせる舞台を提供してるのあんたたちでしょうがと言いたくなる(とはいっても、もともと国会のような討論場が主な舞台たり得るのは、古代ギリシャ都市国家程度の規模でないと無理なのだろうけど)。