『悪魔の詩』の翻訳者五十嵐一氏の死から十四年

筑波大助教授殺害 「悪魔の詩」翻訳者刺殺、時効まで1年

 五十嵐一が殺害されてからもう十四年にもなる。氏の全ての著作を読んだわけではないが、驚異的な博識をもって文化も政治も世界的な視野の中でイスラムを論じることのできる、それでいて破天荒で奔放な想像力に満ちた、日本には希有な学者だったと思う。
 果たして事件が狂信的なイスラム教徒によるものなのかどうかはわからない。なんの目的もない、ただの通り魔のしわざなのかもしれない。いずれにせよ、「現在は『専従体制は取っておらず、市民からの情報もない』(捜査幹部)という状態」である以上、犯人の逮捕はきわめて困難だろう。残念としか言いようがない。五十嵐氏の冥福を心から祈る。

『音楽の風土』からのとりとめのない連想


 五十嵐一の著書の中でいちばん印象に残っているのは、中公新書『音楽の風土』だ。これは音楽の専門書ではなく、むしろ音楽を通じて氏の専門であるイランやイスラム世界の精神風土を描いたものである。ことに圧政を敷いていたパーレヴィ皇帝を追放したイスラム革命の際に歌われた「皇帝に死を」という革命歌が「長調」であり、逆に亡命してたホメイニ師の帰国を歓迎するときの歌が「短調」であったという記述は、私には実に面白く感じられた。
 われわれ、いや少なくとも私にとって、ふつう短調(マイナー)の音楽は悲しげに聞こえ、長調(メジャー)の音楽はそうではない。特に私の愛好するジャズの世界では、よくレコードのライナーノートなどに「この曲は日本人好みの哀感に満ちたマイナーの」などと書いてあるのをみかける。具体的に有名な例を挙げれば、ソニー・クラークの「クール・ストラッティン」やマル・ウォルドロン/ジャッキー・マクリーンの「レフト・アローン」、それにレイ・ブライアントの「ゴールデン・イヤリングス」などがそうだ。そしてこれらはジャズの本場であるアメリカ本国よりもむしろ日本で人気が高いらしい*1。演歌もそのほとんどは短調だ。この辺に日本人の性質に関する問題系が秘められているのかもしれないが、それは余談であって、ここでは深く立ち入らない(というか立ち入るだけの能力はない)。
 「ゆけ祖国の国民 ときこそいたれり」で始まるあのフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」は、その荒々しい(というか血なまぐさい)歌詞に見合ったように、短調から長調へ移行するパートが、王制下の屈従から攻撃に移る第三身分を表しているようでいちばん盛り上がる。アベル・ガンスの傑作『ナポレオン』に、ダントンが楽譜片手にもう一方の腕を激しく振り回して熱唱するシーンがあるが*2サイレント映画であるにもかかわらず、彼に煽られて熱狂したサン・キュロットたちの合唱がスクリーン越しに聞こえてきそうなほど迫力があった。この歌が反動王制期に禁止されたのも無理はない。
 品川弥二郎作詞、大村益次郎作曲とされる「宮さん宮さんお馬の前に ヒラヒラするのは何じゃいな トコトンやれなトンやれな……」の歌も軽くはあるが陽気な雰囲気である。今ではすっかりパチンコ屋のテーマ曲になってしまった「守るも攻むるも黒鉄の 浮かべる城ぞ頼みなる……」の軍艦マーチ*3だってそうだ。おおむね、革命*4や戦争のさいに歌われる曲は士気を鼓舞するためにも勇壮なものが多い。*5
 問題は、にっくき皇帝を追い出してホメイニ師を迎え入れるというまさに歓喜の瞬間に、なぜ哀感をたたえた短調の歌を唄ったのだろうかということだ。そのわけを五木寛之にまとめてもらえば、次の通りである。

 イラン革命の成った喜びの歌、〈ようこそホメイニー師!〉が短調で書かれているのは、革命の陰に秘められた流血と犠牲、そして明日に待ちうけているであろう困苦と重さを十分に心に受けとめた人間たちの情熱の歌だからであった。(『午後の自画像』角川文庫、p.208)

 私がここで思い浮かべるのは、他でもないわが国の国歌「君が代」である。
 この歌は、天皇の統治末永きことを言祝ぐというたいへんおめでたい内容であるにもかかわらず*6、なぜか中田英寿をしてモチベーションを高めるべき試合前に歌うことをためらわせるほど暗く*7、しかも非常に歌いづらいメロディがつけられている*8
 先ごろ大統領選挙が行われたばかりのイランでは、今や保守派と革新派がイスラム法に基づく統治とその緩和・自由化をめぐってせめぎ合っている。新時代の喜びは正しくまたいつか来る新たな苦しみの前奏曲でもあったわけだ。
 だがイランの革命歌が悲しみを秘めながらも変革への「情・熱」を内包していたとして、はたして君が代はどうであろうか? 少なくとも私はあの曲を聴いたり唄ったりして勇気が湧くとか、力がみなぎるというようなことはない。むしろ、歌詞からは千代に八千代に延々と変わらない「冷・静」のイメージを受ける。私は別にこれを天皇制を賛美しているからと批判するつもりはないが、メロディとあいまってなんとも気の抜けた感じがしてしまうのだ。
 もっとも君が代は国歌であって革命歌ではないし、今のまま変わらないでもやっていけるならそれでもいいかもしれない。だが今や皇室典範の改正と女性天皇容認が現実味をもって論議されるご時世なのだ。村上春樹が「上を向いて歩こう」を国歌(準国歌)に、とどこかで書いていたが、歌詞はともかく、あのメロディをもう少し歌いやすいものに変えられないものか。
 いまさら言っても詮ないことだが、国歌を正式に法で制定する際に、少なくとも国民に賛否を問うぐらいはしてほしかった*9。「ラ・マルセイエーズ」だって、元はといえば一工兵大尉にすぎないルジェ・ド・リールがストラスブールのライン軍のために作ったものだし*10君が代の作詞者も不詳なのだ。それこそ憲法と同じく永遠不変の不磨の歌曲というわけではあるまい。*11
 うーん、音楽のど素人がいろいろ書いてしまったが、それだけ五十嵐氏の著作が喚起力を持っているということでしょう。あんまり本の内容とは関係ないのだけれど。

音楽の風土―革命は短調で訪れる (中公新書 (737))

音楽の風土―革命は短調で訪れる (中公新書 (737))

*1:というかソニー・クラークはほとんど無名も同然だという。ビル・エヴァンスだって彼の死に曲を捧げているのに。

*2:ちなみに三巨頭の残り二人はダントンがいる広間の奥の部屋にいて、ロベスピエールは黒い眼鏡の下から冷ややかに見つめ、マラーはどこか不安げな表情で様子を窺っている。声はなくとも三人の性格がよく表されていた。

*3:ヘ長調

*4:フォーク・ソングに悲しげな曲が多いのは、あの時代が「革命」ではなく畢竟「反抗・抵抗」であったことに関わりがあるのかもしれない。それに非暴力的であったことにも。

*5:日本の軍歌には哀調を帯びたものもけっこうあるが、それらは一般将兵には好まれても軍から禁止されることがあった。厭戦気分につながることを怖れたのだろう。また、行進曲には短調の曲も多い。出陣時の悲壮感が表れているのかもしれない。

*6:この歌詞における「君」は必ずしも天皇をさすとは限らないともいわれるが、仮にそうだとしても、明治以降この歌が天皇に結びつけられて解釈され、機能してきたことに変わりはない。

*7:よく言えば「荘重」とか「荘厳」とかなんだろうけど、私にはそうはとれない。

*8:そういえば丸谷才一の『裏声で歌へ君が代』という小説がある。ホント、特に男性には高音部は歌いづらいですよね。それにしてもスマップの中居君の独唱はなんともいえずすごかった。

*9:といっても国民投票の制度がまだないんですが……。

*10:もともとは「ライン軍のための軍歌」だったが、マルセイユの兵士たちがこれを歌いながら上京したためにパリにまで広まった。

*11:フランスでも、歌詞が過激なために改正すべしという議論がしばしば起こる。今のところ変える気配はないが。