忙しい日々の合間にこそ殺人について考えよう

 どういうわけか、寝る間もないほど忙しいときに限って無性に本が読みたくなる。
 確か五木寛之もエッセイの中で忙しいときの読書こそ尊いのだと書いていたが、まさにその通りで、まちがいなく納期までにこの仕事をやり終えなければ路頭に迷うという切羽詰まった状況にあってする行為としての読書は、単なる暇つぶしを超越して先駆的了解に基づく実存的企投の営みへと昇華するのであり、それどころか、世知辛い娑婆のけちくさい損得勘定から離れて紙の上に刻まれたエクリチュールという死んだ言葉を読む(レクチュール)のに専念するということは、すなわち現実原則の支配から脱し、死の欲動に身を任せて快感原則の彼岸へと至ることにもなりかねず、とどのつまりなにが言いたいかというと現実逃避をしたいというだけのことなのだ*1
 とはいえ、しばらく図書館にも行っていないので、読むのに適当な本が手元にない。買ったまま長いあいだ積ん読になっているものがいくつかあるにはあるが、どれも凶器になりそうなほど分厚かったり、複数巻のシリーズものだったりして、読みだしたら最後までやめられないとまらないということになるに決まっている以上、冗談ではなくやばいのでとても手は出せない。
 そういうわけで、こういうときには青空文庫で明治時代あたりのマイナーな作家の短編を見つくろって読むに限る。今回選んだのは、村山槐多の『殺人行者』。

殺人行者読解(ネタバレ)

 村山槐多は大正時代に活躍した夭折の画家・詩人である。といっても私にとっては彼の絵よりも、大学生のころ一般教養のコマを埋めるためになんとなく履修したにすぎないにもかかわらずけっこう面白かった美術史の授業で見た、英語で「メランコリー」と大書してある褌*2をしめた彼の写真のほうが強く印象に残っている。複数の教授が担当していた授業だったが、あれは確か丹尾安典先生の受け持ちの回だったはずで、アカデミシャンとしてはずいぶん風変わりなところがある丹尾先生が取りあげるのになんともマッチした人物だと思ったものだ(失礼なこと言って申し訳ありません、丹尾先生)。
 で、『殺人行者』についてなのだが、ホラーというかミステリーというか、ジャンルわけが難しい内容だ。
 どういう話かというと、筆記者である画家が戸田元吉という男と出会い、彼の体験談を聞き書きするという体裁をとっている。彼は避暑地の山奥で久しぶりに再会した昔馴染みの友人野宮光太郎に催眠術をかけられ、妻を殺してしまい、その後も強盗殺人を繰り返す。実は野宮は「殺人行者」と呼ばれて怖れられている殺人集団の頭目だったのである。やがて戸田は催眠術から覚醒して麓におり、自分の罪を警察に告白するのだが、誰にも信じてもらえず、狂人扱いされて彷徨しているところを画家に出あうのである。
 こうして梗概だけ見ると面白くもなんともなく*3、じっさいあまり印象として面白くはなかったのだが、読み方によってはいろいろと示唆されるところがあった。特に最後の章が興味深いので、少し長くなるが引用してみる。

(十一) 狂人か将酔漢か

 僕はほつと息をしつゝあたりを見まはした。其時僕は始めて覚めた。一切から覚醒した。野宮の恐る可き魔術の暗示は今頭を岩で酷く打つた拍子にその効果を失つたのであつた。僕は静に過去の悪行を考へた。第一に豊子の事を思ひ、涙はさめ/″\と凍れる我頬の上を伝つた。『許して呉れ。豊子。』と僕は叫んだ。二度も三度も大声で叫んだ。俺はわが妻を殺したのだ。何十人と云ふ罪なき生命をうばつたのだ。たとひそれが野宮の暗示に依つて行はれたとは云へ現在この自分の手からそれ等の人々の黒血はわが良心に向つて絶えざる叫びを上げるのである。僕は無自覚なりし以上五箇月の所業を自己意識を得て後悉く明かに回想し得るのである。是れ程残酷な事がまた世にあらうか。
 僕はそのまゝ痛む身体を以て麓まで下りた。けれど警察では僕の言を信じなかつた。僕は東京へ送り帰された。僕は極力自己の罪ある事を述べ立てたが誰も信ずる者はなかつた。僕の所業一切は彼野宮光太郎の所業として扱はれた。そして警察は僕が妻の死を悲しんだ余り精神錯乱せる者と見倣してしまつた。僕は遂に狂人にされてしまつた。
 以上がこの酔漢の物語りであつた。自分は聞き終つた時世の運命の残酷なる斯の如きものあるかと思つて慄然たらざるを得なかつた。翌朝目覚めたる彼は自分の留めるのもきかず無言のまゝで出て行つた。自分はあとを追つて外へ出て見るともう彼の姿は見えなかつた。自分の心は何となく暗くなつたのである。それから二日目の朝の新聞紙に彼の失踪広告が出て居た。自分はすぐ彼が自分の画室に宿つた事を知らせて遣つた。然るにその手紙も未だ着かざる可きその日の夕刊にて自分は彼哀れむ可き考古学者戸田元吉が佐竹廃園の丘上に他殺されその死体が発見された事を知つた。そして思はず自分の眼に手をやつた。数行の記述は次の如くであつた。『長さ約八寸青き柄の鋭利なる短刀心臓を見事に貫き其まゝに残しあり。』あゝかの恐る可き『殺人行者』の一味は未だ暗に活躍しつゝあるのである。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000014/files/728.html

 戸田の自供を信じる者は誰もいなかった。それは催眠術によって操られたという話があまりに突飛にすぎるからだろう。そのため、彼の罪はすべて野宮の犯行に帰せられてしまった。ここで疑問なのは、それならばなぜ戸田は殺されなければならなかったのかということだ。彼の話を信じる者が誰もおらず、野宮が実の犯人と目されている以上、いまさら口封じのためとは考えにくいから、「殺人行者」の一味を抜けた裏切りを罰したとでも考えるのが妥当なところだろうか。
 しかし、身勝手な解釈の徒としては次のように考えてみたい。すなわち、戸田が罰せられたのは、自らの罪を意識してしまったからだと。なぜなら、野宮の催眠術によって使役された「殺人行者」の面々にとって、彼らの「所業一切は彼野宮光太郎の所業として扱は」れる限り自らが罪に問われることはないからである。しかし、じっさいに責任があるとはいえず、法的には免責されたとしても、いったん抱いてしまった自責の念は頭から離れないし、殺人を続けることもできなくなる。たとえ警察が信じなくても、殺人行者の一味が戸田の話を耳にし、それがきっかけで催眠状態から脱し、自分も罪の意識を感じてしまうかもしれない。それを怖れた野宮によって戸田は殺されたのである。戸田は自らの責任を意識してはいけなかったのだ。むしろ、責任はすべて首領の野宮に集中させなければならない。上位者が下位者に罪をなすりつけようとする通常の犯罪組織*4とは違って、催眠術を操る野宮という超越的な存在が君臨する「殺人行者」においては、首領である野宮が無限の責任を負い、他の一味の人間の罪が一切免責されているからこそ、犯罪行為を継続することができるのだから。
 ちなみに、村山槐多がこの短編を書いたのは京都府立第一中学校在学中、つまり1914年以前のことと思われるので、以上のような解釈をとある戦争下の状況を反映したものとして想定することは端的にアナクロニズムであるということを付言しておく。そうではなくて、もっと一般的な様相なのだ、これは。

*1:各種思想用語の使い方が激しく間違っていると思われますのでご注意を。

*2:しかも、綴りが間違ってる。

*3:まあ、どんな小説でも要約すればつまらなくなるが。

*4:ヤクザの替え玉の自首とか。