テスト、テスト

  • 以下の文章を読み、( )と《 》のそれぞれに当てはまる言葉を答えなさい。

 戦後、( )は自ら政治規範を示し、それに反する者を社会的に制裁することで民主主義の浸透を図ってきた。しかし多くの人は、「ポリティカル・コレクトネス」が押しつけられると感じていた。「道徳的棍棒」を振りかざすのは誰か、これは言わずとも明らかであった。そして、( )はもう十分に謝罪し、罪を償ったという思いは、( )は尽きることのない非難で誇りを失い、国家としての方向性を喪失したという怒りへと発展する。いわゆる「自虐史観」にとらわれているという批判である。( )が「普通」の国になるのを阻害しているとされる《 》らに対する怒りは、「健全」な国家アイデンティティを求める保守層に共有される。

 なーんだ簡単じゃん( )は日本で《 》は韓国や中国でしょと答えた人はそれはそれで間違ってないし、この文章のレトリックを見れば筆者には日本の状況を喚起する意図があったのだろうけれど、不正解。正解は、(ドイツ)と《ユダヤ人》でした。出典は、武井彩佳『戦後ドイツのユダヤ人』*1p.175。
 この文章は、ドイツの著名な作家マルティン・ヴァルザーがドイツ出版書籍業界「平和賞」を受賞した際の講演とその反響を引き合いに出した後に続くもの。問題のヴァルザーの講演とは次のようなものだ。

 われわれの歴史の重荷、消え去ることのない恥辱を誰もが知っているし、これを突きつけられない日は一日としてない。われわれの罪をとがめるインテリたちは、そうすることによって、また悲惨な記憶の仕事に取り組んだのだから、ほんの少し許されたと一瞬錯覚しているのではないか? 一瞬だけ加害者より犠牲者の側に立ったとでもいうのか? ちょっとの間、犠牲者と加害者の相容れることのない対立が緩和されるというわけだ。私自身は、罪を咎められる側を離れられると思ったことは一度もない。時に、何かの罪で弾劾されずには何も眺められないようなときは、メディアでも罪を咎めることが日常になったのだと考えるようにしている。強制収容所の見るに耐えない映像から何度目をそらしたことだろう。まじめな人間なら、アウシュヴィッツを否定したりしない。責任能力のある人間なら、アウシュヴィッツで行われた残虐さについて、ごまかしの解釈などしない。だが毎日メディアで過去を突きつけられると、われらの恥辱の常なる展示に抗する自分に気づくのだ。われらの罪を延々と見せられてありがたいと思うどころか、目をそらしたくなる。自分が防御姿勢に入っていると気づくとき、われわれの罪に対する非難をその動機から調べてみようという気になる。そしてこれが追悼するためだとか、忘れないためなどではなくて、実は目下の目的のためにわれわれの罪を利用するためだと発見したように思うとき、ほとんどうれしくなるのだ。良い目的には違いない。尊敬すべきものだろう。しかし利用は利用だ。(中略)脅し文句として使われるためにアウシュヴィッツが起こったわけではない。アウシュヴィッツはいつでも使える脅迫手段でも、道徳的棍棒でも、お決まりの儀式でもない。儀式化から生まれるのは、リップサービスほどの質しかないだろう。しかし、いまやドイツ人は全く普通の国民だ、全く普通の社会だと口にしようものなら、いったいどんな嫌疑をかけられることか。(前掲書、pp.173-174)

 これに対して、「講演は、実に広範囲で好意的に受容された。政界からの反応も一様に肯定的なものであった」(p.174)という。
 この本では戦後のドイツにおけるユダヤ人の歩みと、かれらに対する東西ドイツ政府の補償政策が論じられているが、それによれば、西ドイツのユダヤ人に対する(日本と比べれば)手厚い補償や謝罪の姿勢は、なによりもドイツがナチ体制を克服したことを目に見える形で国際世論に示し、戦後の国際社会に参入することを目的としたものであり、とりわけ西側のリーダーであり国内に有力なユダヤロビー団体を抱えるアメリカの圧力が大きかったことがわかる。だからといって戦後ドイツのユダヤ人政策が否定されるわけではないし、謝罪と補償の努力は評価されるべきだが、根強くはびこった反ユダヤ主義が心から抛棄されたわけでは必ずしもないということだ。
 ヴァルザーの講演にしても、部分的には妥当と思われる指摘を含みながら*2、全体的には、「「過去の克服」の形骸化を、行為の主体であるドイツ人ではなくて犠牲者の側に帰し、ユダヤ人がいつまでも過去にこだわるから反ユダヤ主義が増長するのだという、被害者と加害者のすり替え」(p.177)へと傾斜していってしまう。たとえばパレスチナでの行為の免罪符にするといった、アウシュヴィッツの政治的利用や言説を批判することは、「われらの恥辱の常なる展示に抗」し、「目をそらしたくなる」ことには繋がらない。それは別問題だ。もっとも、ここでヴァルザーがほのめかしているのは、ドイツに対して延々と突きつけられる経済的補償や謝罪の要求などだろうが、それらを全面的かつ無条件に受け入れるのではなく、妥当性を精査して個々に対応することと、それにうんざりしたドイツ人が過去の罪から目をそらすことはやはり別問題である。ひとは上に引用したヴァルザーのように言うとき、自身の責任を回避する態度をもっともらしく正当化しようとしているにすぎない。じっさい、ヴァルザーは「ルサンチマンに満ちた発言を繰り返」し、「次第に結局作家は反ユダヤ主義者なのではないかという疑念が生じ、ヴァルザーは社会的な信用を失った」(p.178)そうだ。
 ところで、彼の講演はドイツ出版書籍業界「平和賞」の授賞記念だったそうだが、これは、カール・ヤスパースが受賞してハンナ・アレントが講演を行ったのと同じものなのだろうか。そうだとしたらいささか皮肉だ。そこで本棚を探して*3見つけたアレントの『暗い時代の人々』を繙いてみると、やはり「われわれはここにドイツ書籍協会平和賞を贈呈するために参集しております」*4とある。この賞の受賞記念ではないが、ヤスパースがドイツの戦争責任についてハイデルベルク大学で講演したのが一九四六年、ヴァルザーの講演が一九九八年。数十年に渡って罪責の念を引き受け続けるのに倦み始めたということだろうか。911以降は、アメリカ支持を明確にするイスラエルに対する批判がそのまま、かならずしもイスラエルを政治的に支持するわけではないドイツのユダヤ人にも向けられかねない状況が惹起しているという。いずれにせよ、ホロコーストに端を発したドイツのユダヤ人問題はまだ終わっていないということだろう。況や戦争責任と補償にほとんど面と向かって対峙してこなかった日本においておや。それにしても、一国の大統領が平気でホロコーストは神話だと言い放ったのにはなんとも唖然とさせられる*5

*1:

戦後ドイツのユダヤ人 (シリーズ・ドイツ現代史)

戦後ドイツのユダヤ人 (シリーズ・ドイツ現代史)

*2:過去の反省に対する形式的な儀式化など

*3:嘘ですほんとうは「本の山を崩して」です。

*4:カール・ヤスパース――賞賛の辞」ハンナ・アレント『暗い時代の人々』所収、阿部斉訳

*5:ロラン・バルト的な意味でならホロコーストにまつわる(ホロコースト自体に、ではない)「神話作用」がなくもないかもしれないが、もちろんこれはそんなレベルの発言ではなく、単なるホロコースト否定にすぎない。