エドモンド・ハミルトン『フェッセンデンの宇宙』

 「のちにSFの定番となるアイデアの数々を考案している」作家、エドモンド・ハミルトンの短編集。のちのSFの定番となるアイデアを他の作家に先駆けて考案したというのは実に偉大な文学的業績ではあるとはいえ、逆に言えば現代のSF小説や映画を体験してから遡行的に彼の作品を読む場合、当時としては新しかったアイデアが古く感じられてしまうということにもなるわけだが、この短編集に収められた作品は比較的粒ぞろいで、時間経過による陳腐化に抗し得るだけの質を持っていると思う。
 しかし私がここに収録された短編のなかで一番好きなのは、SFではなくファンタジックな冒険小説「風の子供」だ。これを読んで宮沢賢治の「風の又三郎」に似ていると思ったのだが、それは「風」という共通要素によるためばかりではなく、それぞれの作品が持つ両義性にもよる。
 「風の又三郎」の場合、山間の小さな教場に突如現れ、そしてあっという間に(まさに、風のように)去っていく高田三郎というミステリアスな転校生と、風の又三郎という風童神が重ね合わされるわけだが、最後まで彼が又三郎であるのか、ちょっと謎めいているだけの転校生なのかどうかは判然としない。「そうだなぃな。やっぱりあいづは風の又三郎だったな。」と嘉助という少年は叫ぶが、それでも内心では半信半疑で、一郎と「二人はしばらくだまったまま相手がほんとうにどう思っているか探るように顔を見合わせたまま立」つのである。*1
 「風の子供」は、黄金を探してトルキスタンの奥地に向かうブレントという白人男性が、自己の意志を持ち自由に動き回る風と共に暮らすローラという少女と出会い、彼女を人間の世界に連れ戻すという話なのだが、これも「風の又三郎」と同じように、はたしてローラが妄想に囚われていただけなのか、それとも本当に風が生きていて、自律した意志を持っていたのかどうか決定できず、どちらともとれるように書かれている。
 両者に共通するこうした性質を、リアリズムでもなく、さりとて完全なフェアリーテール(別世界のおとぎ話)でもないという意味で、個人的に薄明のファンタジーと呼んでいる。
 それは夜明け前、あるいは黄昏時の薄明かりのなか、ちょっとした角度の違いでふだん見慣れたものがまったく異なった相貌を表すような、そういう小説だ。こうした小説は幻想的な読後感を与えられもするが、マジックリアリズムとはまた違った認識論的な意味で、一般的なリアリズムよりもリアリスティックなのではないかとも思う。