新倉俊一『詩人たちの世紀 西脇順三郎とエズラ・パウンド』

詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)

詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)

 西脇順三郎エズラ・パウンドやその周辺の人びとを中心にして二十世紀詩の潮流を辿ってゆく過程はなかなかに読み応えがあった。ただ少しひっかかかったのが以下の引用部分。

 私は七五年にアメリカのメイン州で没後最初のパウンド学会に出席したとき、その(エズラ・パウンドの:引用者)ユダヤ人の友人のひとりに会った。三〇年代以来パウンドの詩学に傾倒して客観主義詩のアンソロジーを出したり、運動を実践してきた詩人ルイス・ズコフスキーであった。彼はシンポジュウムに引き出されて、パウンドは反ユダヤ主義者かどうかという相も変わらない議論の蒸し返しにうんざりして、「それよりもパウンドの詩について語ろうじゃないか」と、苛立たしげに提案した。
 私も彼の意見に賛成である。もしパウンドが偉大な詩人でなかったとしたら、何主義者であろうと彼の詩を読む気はしない。第二次大戦後イタリアでもピランデルロをはじめ、多くのすぐれた作家が思想的な掣肘を受けた。だがいつまでも政治的レベルでのみ作家を批判し続けても仕方がない。ダンテは法王派の支配下にあるフィレンツェを奪回するために、神聖ローマ皇帝アリーゴ五世の信仰を要請して、フィレンツェから死刑の宣告を受けた。『神曲』にはフィレンツェの腐敗を糾弾する言葉が満ちあふれている。だれが、今日、ダンテの詩をその政治的立場から是非を論じるだろうか。(pp.235-236)

 エズラ・パウンド反ユダヤ主義については通り一遍の知識しか持っていないので、ここで彼の政治的立場をどうこうとあげつらうようなことはできないし、するつもりもない。しかし、一般論として言えば、作家や思想家の政治思想・主義と作品を切り離し、ブンガクやテツガクを純化して救いだすのは、かえってその作家なり思想家なりの作品を読み解く上で貧しい結果しかもたらさないのではないだろうか。
 『夜の果てへの旅』や『なしくずしの死』などの自伝的小説作品で高い評価を得ている作家ルイ=フェルディナン・セリーヌは、同時に『虫けらどもをひねりつぶせ』といった激烈な反ユダヤ主義パンフレットの作成者でもあり、第二次大戦後には対独協力者として欠席裁判ながら死刑を宣告された人物でもある。戦後も長らくフランスでは古本でしか彼の本を手に入れることはできなかった。
 そこからスタイナーの『ハイデガー』のように、セリーヌの政治思想(ファシズム反ユダヤ主義)と文学作品のあいだには、切り離すことのできない有機的連関や必然性が存在するのではないかと問いをたてることはあっていいはずだし、実際にある。徐々に彼の小説と反ユダヤ主義パンフレットとを分けて評価する傾向になっているようだが、国書刊行会の『セリーヌを読む』によれば、傑作とされる『夜の果てへの旅』にも悪意に満ちた反ユダヤ主義的な文章が分かりづらい形で挿入されていた*1
 したがって、「それよりもパウンドの詩について語ろうじゃないか」ではなく、「それよりもパウンドの詩と反ユダヤ主義について語ろうじゃないか」と言うほうが適切ではないかと思うのだが。
 「いつまでも政治的レベルでのみ作家を批判し続けても仕方がない」のは確かだが*2、政治的な側面を〈作家〉だけではなく〈作品〉からも切り離して等閑視してしまうのも同程度に不毛な行為ではないだろうか。今日、ダンテの詩を政治的立場から批判する人はいないかもしれないが、ダンテの政治的立場がどのように『神曲』に影響を与えているか研究する人はいるだろう。

*1:私はこの本を読むまで当該部分に秘められた意味に気がつかなかった。ヘンな文章だなあとは思っていたけど。

*2:ファリアスの『ハイデガーとナチズム』とか、ポール・ド・マンの過去のナチ荷担をネタにした、「政治的」なデリダ攻撃などは確かに見ていてあまり気分のいいものではない。