桜庭一樹『GOSICKs』―少女と人形

 このシリーズを読んでいていつも思うのだけど、「荘厳な歴史」とか「荘厳な宗教画」などのように、やたらと「荘厳な」という形容語を多用しているのは、ヴィクトリカというひとりの少女を押しつぶそうとするソヴェールという架空の国の歴史や文化に対する皮肉なのだろうか、それとも単にボキャ貧なだけなのだろうか。
 「何時までも何時までも人形と紙雛(ねえ)さまとをあひ手にして飯事(ままごと)許りして居たらば嘸(さぞ)かし嬉しき事ならんを、ゑゝ厭や厭や、大人に成るは厭やな事、何故このやうに年をば取る」*1、と嘆いた「たけくらべ」のヒロイン美登利の裕福な少女時代は、小遣いという形をとってはいても事実上は遊郭の手付けである金がもたらしたものであり、大人になることはすなわち女郎になることを意味していて、そこから逃れる術はなかった。それと同じように、聖マルグリット学園の図書館にこもって外に出ない(出られない)ヴィクトリカもまた、ある国家的な目的のために人為的に意味づけされて生み出された存在、生まれ落ちた瞬間から未来を奪われている少女だ。 
 だが彼女はいつまでも少女のままでいたがる美登利とはちがい、古今東西の難解な書物を読みあさり、大人顔負けの知性を発揮して難事件を解決し、老人のようなしわがれ声で語り、いつもパイプを口にして煙をふかしている。彼女はあたかも大人のように振る舞っているのである。
 「(……)少女は一般に社会的にも性的にも無知であり、無垢であり、小鳥や犬のように、主体的には語り出さない純粋客体、玩弄物的な存在をシンボライズしているからだ」*2という澁澤龍彦の文章があるが、作中でヴィクトリカは頻繁に〈小鳥〉や〈人形〉に喩えられている。小鳥と同様、人形もまた自らは「語り出さない純粋客体」にほかならない。じっさい、表紙の絵を見ればわかるが、彼女の外観は時代遅れのビスクドールとしか思えないのだ。にもかかわらず、澁澤龍彦の言葉を裏切るようにヴィクトリカは知を求め、主体的に語り、周囲に対して傲岸不遜な態度を崩さない。
 それはなぜか。言うまでもなく、無力で無垢な玩弄物としての〈少女〉という境遇から抜けだそうとするために違いない。池内紀カフカの『アメリカ』とサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を扱ったエッセイの中で、〈少年〉のことを「いずれビヤ樽や太鼓腹の大人をつくるためにあるのに、少なくともいまは獰猛に骨張って痩せている。財布と小切手がすべての世の中で、まるきり別の価値体系をもち、それ自体は人生のアペリチーフ*3のような存在だというのに、高度に集中した生きものとして、ときには大人たちに畏怖をおぼえさせたりもするのである」*4と述べている。だが、そのままで大人たちに畏怖をおぼえさせることのできる少年とはちがい、〈少女〉である彼女は大人としてふるまうことによって先取りされた将来を奪還し、知と論理と言葉を武器にして自らに覆いかぶさる運命に抗しているのだ。
 だが好事魔多し。孤独のうちに運命と闘っていた彼女の前に久城一弥という躓きの石、東洋の死神が現れる。それというのも、ヴィクトリカは彼の前ではときおり客体としての〈少女〉に戻ってしまうのだ、というより、普段は隠している〈少女〉の面を現してしまうといったほうが適切か。とはいえ、「手の中にいた小鳥が再びどこかに飛び去ったように、彼女を失ったような気がした」(p.128)というように、ヴィクトリカは久城に近づいては離れ、離れてはまた近づくという態度を繰り返す。そう簡単に久城の手の中に収まってしまったりはせず、あくまで主体的な存在として彼と関わろうとする。
 しかしそのような仕方であれ、親しくなればなるほど、彼女の社会的な無知さや無力さも露呈してしまう。巻がすすむごとに、ヴィクトリカの〈少女〉としての側面が久城と読者に披瀝され、当初彼女の持っていた、人を畏怖させる力は弱まってゆき、それにつれて久城のヴィクトリカに対する保護欲と分かちがたい友情も高まってゆく。そして久城にとっても読者にとっても、ヴィクトリカもやっぱり普通の女の子なんだ、ということにあいなる。それは背伸びして大人を演じている彼女にとってはたして幸福なのか、そうではないのか。
 ともあれ今後、いかにして彼女が自らの少女性と折り合いをつけ、それを乗り越えてどのような女性に成長してゆくのか。その過程で久城との関係はどのようなものになるのか。今後の展開に注目したい。個人的には、四巻になるまではあまり目立たなかった、同じ少女のアブリルが久城に比べても大きな役割を果たしてくれるのではないかと思う(期待する)のだが。
(追記: 澁澤龍彦も「当然のことながら、そのような完全なファンム・オブジェ(客体としての女)は、厳密にいうならば男の観念のなかにしか存在しえないであろう」といっていますが、このエントリで「少女」とか「少女性」と言っている部分のほとんどは、単に時代区分を指すだけではなく括弧付きのものであり、男に限らず人の観念のなかに存在する固定的な概念のことで、現実に存在している少女の本質などでは全くないということを、蛇足かもしれませんがつけ加え、修正しておきます。)

*1:樋口一葉たけくらべ」。( )内は引用者による。

*2:澁澤龍彦「少女コレクション序説」

*3:食前酒。引用者注。

*4:池内紀「少年」『ちいさなカフカみすず書房 p.72