ジャン・エシュノーズ『ぼくは行くよ』

ぼくは行くよ

ぼくは行くよ

 ジャン・エシュノーズはまだまだ日本では知られていないと思うが、本国フランスでは人気のある作家だ。これは彼がフランスで最高の文学賞とされる、ゴンクール賞を受賞した作品である。
 女たらしで美術商のフェリックス・フェレールは、北極で座礁した船に残された宝を探しに行き、みごとに持ち帰るが、その宝を盗まれてしまう。もともとこの探険行は、彼に宝を持ち帰らせたところをかっさらってしまおうという計画的犯行だったのだ。そこでフェレールは盗賊を捜しに旅に出る……というわけではなく、捜査は警察に任せて、彼は体を悪くして寝たり起きたりスノッブなアーティストと喧嘩したり審美眼のない客を丸め込んだり女とくっついたり離れたりする、というなんとも人を食った小説である。
 もう一方の宝を盗んだ人間とフェレールの視点が時間軸を錯綜させて交互に語られ、そこにフェレールにつきまとう謎の美女が絡んだりして、最後に収斂することになるのだが、こんなあらすじを紹介したところでこの小説の魅力を語ることはできない。なぜなら、この小説の一番の魅力は、軽妙ですっとぼけた、ユーモアに溢れながらも的確で辛辣な描写を尽くした文章そのものにあるからである。特に、『チェロキー』などの他作品と違って、この作品に限っては、話の筋など二の次と言っても過言ではない。
  次に引用する一節だけで彼の文章の魅力をあますことなく伝えているだろう。

 掃除機をかけ忘れること常に数日分のこのアトリエは、男やもめの穴ぐら、追いつめられた逃亡者の隠れ家、遺産相続者たちが取っ組み合いをやらかしているあいだは凍結されている遺産のようなものである。五つの家具が最低限の心地よさを保証し、おまけにフェレールがとっくの昔にダイヤルの組み合わせを忘れてしまった小さな金庫があり、一メートル×三メートルのキッチンにはしみだらけのレンジ、萎れた野菜二つ以外は空っぽの冷蔵庫、賞味期限切れの缶詰の並ぶ棚がある。冷蔵庫はめったに使われないため、フリーザーが天然の氷山に覆われている。フェレールは毎年この氷山が流水に変わるころを見計らい、ヘアドライヤーとパン切りナイフを使って霜取りに着手する。洗濯室の壁は水垢と硝酸塩、じゅくじゅくした漆喰に浸されているが、洋服ダンスには黒っぽいスーツが六着、白シャツ一そろい、そしてネクタイがずらりと内蔵されている。それというのもフェレールが、ギャラリーでの仕事中は、非のうちどころのない身だしなみを心がけているからである。政治家か銀行支店長のごとき、きちんとした、謹厳なまでのみだしなみを。(pp.10-11)

 ユーモアと比喩に満ちたアイロニカルな記述だが、これだけでフェリックスの人となりがよく窺える。フランス語の原文はもうすこしリズムが軽快な気がするが、そこは言語の違いということでしかたあるまい。こういう、言葉自体に魅力の多くを負っている小説を訳すのは非常に難しい業なのだが、青木真紀子氏の訳はじゅうぶんにこなれており、原文の雰囲気をよく伝えていると思う(ておまえ偉そうに何様だよ、と自分でつっこんでみる)。
 そしてこの小説におけるもう一つの魅力、というか主題は、「移動」である。その空間的な、あるいは人間関係における絶え間ない移動が、物語の展開に寄与するほかに、なにを意味しているかは、ここでは言及しないことにする。
 ただ一つ言えることは、この軽妙洒脱な小説を読み終わった後に感じるのは、爽快さや笑いではなく、おそらく哀しみのようなものだろうということだ。文章が軽くユーモラスだとしても、表現するものまで軽薄だとは限らない。上に引用した文章にもその片鱗が窺えると思うが、ここには確かにフェレールや彼の周りを行き交う女たちとその関係、それに逃げ回る盗賊などを通して、現代を生きる人間の姿―それはつまり読者自身の姿でもありうる―がうまく表されている。ページ数も少なく、気軽に読めるものの、山椒は小粒でもぴりりと辛いといえる小説である。