ジャン・ヴォートラン『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』

パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない (ロマン・ノワールシリーズ)

パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない (ロマン・ノワールシリーズ)

 
 この作品については、訳者の高野優氏が後書きで梗概を簡潔にまとめてくれているので、まず最初にそれを引用する。

 舞台はパリ郊外の団地。ある朝、団地に付属した教会の入口で花嫁が射殺された。純白のウェディングドレスの胸を真っ赤に染めた花嫁の血には、「ネエちゃん、おまえの命はもらったぜ!」という乱暴なメッセージとともに「ビリー・ズ・キック」の署名が残されていた。〈ビリー・ズ・キック〉というのは、アメリカ西部開拓史時代の無法者、ビリー・ザ・キッドをもじったものだ。捜査にあたったシャポー刑事は、そのメッセージを見て愕然とする。〈ビリー・ズ・キック〉は、シャポー刑事が創造した人物だったからだ。シャポー刑事は、〈おはなし〉好きで想像力の豊かな七歳になる娘、ジュリー=ベルトのために、社会に害をまきちらす残酷な無法者、ビリー・ズ・キックの物語をつくって聞かせていた。その想像上の人物が現実に登場して、犯罪を犯したのである。〈おはなし〉のなかでは、ビリー・ズ・キックは捕まらない。そして、現実のビリー・ズ・キックも……。現実の世界にデビューしたビリー・ズ・キックは、警察の捜査を尻目に次々と犯行を重ねていく……。

 このエントリーでも少しふれたが、パリ郊外のHLMという団地は低所得者層や移民が主に住む場所である。この小説の登場人物たちは、そういった舞台にふさわしく、表面的には明るくても、皆どこか行き詰まった雰囲気を醸し出している。
 シャポー刑事に言わせれば、「これからは、もうこういった種類の街が建設されることはないだろう。それは政府が言ったことだ。なぜなら、この計画は失敗だったからだ。郊外のこのクソッタレの団地は……。政府のお偉がたは、ようやくそのことを認めたのだ。団地の生活は暗い。誰もが自分勝手に生きて、住民同士のコミュニケーションなどありゃしない。ウサギ小屋の住人たちが、ところせましと観葉植物の鉢を並べ、レンタル・テレビを見て、ローンで買った車でお出かけする。一種のゲットーだ」(p.40)ということである。
 このような団地に周りを囲まれても立ち退きを拒否し、郊外にあって最後まで一軒家を守ってきた老人、アルシッドはこう言う。「だが、私は最後まで抵抗するつもりだ。土を守る最後の男になるのだ。放っておくと団地はどこまでも上に伸び、太陽を食らう。そいつらに囲まれて、私の土地はもう千平方メートルしか残っていない。息が詰まりそうだ」(p.95)。
 この小説は、シャポー刑事いわく〈ウサギ小屋〉である団地による、広大な〈土〉に対する戦いなのである。ビリー・ズ・キックはシャポー刑事が生み出した存在だが、彼の物語は娘を通して団地の住民に伝えられ、やがて現実の姿をとることになる。それは郊外の団地に鬱屈した無定型の思念が、ビリー・ズ・キックという形をとって実体化した、剥き出しの暴力そのものなのだ。
 しかし、アラン・ドロンに憧れるいたずら好きの少年に(少年の心の中の)ドロンが「私を目標にしてくれたのはありがたいと思っている。でも、気をつけるべきだったな。映画のなかで私が悪いことをするときには、最後には失敗するようにシナリオができているんだ」(p.171)というように、どこまで行っても団地が太陽を食らうことはないのである。『太陽がいっぱい』で貧しい青年を演じたアラン・ドロンが、最後で失敗して裕福な知人の財産と女を奪い損ねたように。

 『天空の城ラピュタ』で、ラピュタの王族の子孫であるムスカは「ラピュタは滅びぬ、何度でも蘇るさ。ラピュタの力こそ人類の夢だからだ!」と言った。ラピュタの《力》とは端的に言って天空から地上を支配する《力》である。
 彼に向かってシータが「どんなに恐ろしい武気を持っても、たくさんのかわいそうなロボットを操っても土から離れては生きられないのよ」と言うように、ラピュタは天空へと果てしなく昇っていき、滅びた。しかし、ラピュタが滅びたとしても、ラピュタが体現する《力》が滅びることはないだろう。それが人類の夢であるかどうかはともかく、人が社会を構成して生を営む限り、支配と被支配の構図は変化しこそすれ、完全になくなることはないからだ。
 支配する《力》が滅びないのだとすれば、それに抵抗・反抗する《力》もまた滅びることはないに違いない。いまや支配し、管理する《力》はラピュタのような直接的で単純な暴力ではなく、蜘蛛の巣のようにシステマティックに複雑化し、郊外団地は社会の掃き溜めと化している。だからこそ、「パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない」のである。なぜなら、ビリー・ズ・キックの〈犯行〉はそうした郊外団地という場の生み出す〈反抗〉の《力》によるものだからだ。ビリー・ズ・キックを名乗る特定の犯人を捕らえたところで、そこに宿っていた《力》そのものは消えないからである。
 いや、実のところそれは〈反抗〉の《力》と呼ぶほど明確な意志や目標を持っているわけはなく、いわば地中のマグマが噴火口から噴出するように、行き場のない憤懣や鬱積した不満、漠然とした不安感などが渾然となって暴発した、純粋な《暴力》にすぎない。
 ネオ・ポラールと呼ばれる、主にガリマール書店の「セリ・ノワール叢書」に籍を置く一群の作家たちは、一時期好んで郊外団地を舞台にした小説を書いた。この作品もその種のネオ・ポラールの一つにして、代表的な存在である。しかし、やがては繰り返される舞台も題材もテーマも陳腐化し、社会に対して当初に与えたほどの衝撃力を失っていった。まして現実において、このような暴力はたんなる犯罪にすぎず、社会を変えるような《力》にはおそらくなり得ないだろう。
 だが、たとえ団地がなくなったとしても、ビリー・ズ・キックは死なないに違いない。どのような形であれ、そこに閉塞を打ち破ろうとするエネルギーがある限り。