アメリカ温故知新――F.L.アレン『オンリー・イエスタデイ』

オンリー・イエスタデイ―1920年代・アメリカ (ちくま文庫)

オンリー・イエスタデイ―1920年代・アメリカ (ちくま文庫)


 前回のエントリーでちょこっと触れましたが、これは副題が示すように、一九二〇年代のアメリカを描いた本です。ただこちらのほうは文化だけでなく政治経済や社会現象をまんべんなく網羅しているところが違い。ちなみに、続編の『シンス・イエスタデイ』は三〇年代をほぼリアルタイムで追ったルポルタージュで、こちらも読みがいのある力作。
 クーリッジ大統領からアル・カポネまで、二〇年代のアメリカ社会を総体的に概観できる本なのですが、これを読んでいると八十年も前のことなのになんだか身近に感じられる記述がちらほらと……。例えば、

 一九二〇年の元日、合衆国の全都市で、パーマーのスパイや警察や民間の協力者が、共産主義者があちこちの本部で集会しているところを同時に急襲し、共産主義者であるなしを問わず(どうしてそれを釈明できよう)、実際そこに居合わせた人間をすべて一網打尽に襲い――そして拘引状のあるなしにかかわらず、牢獄に送りこんだ。あらゆる証拠物件――印刷物、党員名簿、書物、書類、壁にかかっている写真、その他すべてのもの――が、家宅捜査令状のあるなしにかかわらず押収された。その夜から数夜にわたって、残りのコミュニストおよびコミュニストとおぼしき人物が自宅で逮捕された。逮捕者は六千人をこえ、即決処分によって数日もしくは数週間拘留され――はっきりした訴因を知らない者さえあった。一市民が、コミュニストでもないのに、何かの間違いで――多分、名前からきた間違いであろう――数日間投獄され、危いところで追放を免れたりした。デトロイトでは、百人以上の人びとが二十四フィートと三十フィート四方の牛小屋にぶちこまれ、市長が呆れるほどひどい条件のもとに、一週間留め置かれた。ハートフォードでは、容疑者の面会人をすべて、共産党に入党している一応の証拠と見なして、逮捕監禁するという策が講じられた。(pp.85-86)

 これは第二次大戦後のマッカーシー旋風ではなく、ロシア革命の余波を受けてのもの。それにしてもまるで911以降のアラブ系市民に対する取り扱いのようです。南仏のカタリ派に対するアルヴィジョワ十字軍の指導者アルノーアマルリックの言葉「すべてを殺せ。神はおのれのものを知り給う」*1をもじれば、「すべてを捕らえよ。最高裁判所はおのれのものを知る」といったところでしょうか。

 ドイツとの戦争の終わりごろには、社会的義務を強制することが、国民的な習慣になっていた。古い家系の典型的アメリカ人は、少数者の権利を守ることに対しては、まるで冷淡だった。開拓者の伝統のなかで育ってきた彼らは、いちばん手っとり早い手段――たとえば奢侈取締法とか、自警団とか、必要ならば銃を使うことなど――によって共同体の秩序を維持しようとするように習慣づけられてきた。独立宣言や権利章典は、歴史書としてならば結構なものだったが、自分が事を運ぶときには、自由とは放縦の別名だとか、権利章典は悪党が使う最後の手段だ、などという考えをほのめかしてはばからなかった。戦争中、彼らは法律をつくり、宣伝し、おどすことで、周囲の人びとを自分の思うように動かすことが、いかに容易かを知った。平和になった後も、彼らはこの同じ方法を続けようとした。(pp.300-301)

 「自由とは放縦の別名だとか、権利章典は悪党が使う最後の手段だ、などという考えをほのめかしてはばからなかった」。おやおや、近ごろ日本でも政治家の皆さんの口からよく漏れる言葉によく似ています。なんでも自民党憲法改正プロジェクトチーム「論点整理」*2によれば、「新しい時代に対応する新しい権利をしっかりと書き込むべきである。同時に、権利・自由と表裏一体をなす義務・責任や国の責務についても、共生社会の実現に向けての公と私の役割分担という観点から、新憲法にしっかりと位置づけるべきである。」そうですが、社会が政治経済的に危機的な状況に陥ると、統治者というのは似たような反応を示すものなのですかね。

 実際に、タブロイド版新聞はブームを呼び、ある種の効果をもたらしつつあった。タブロイド版新聞がブームを迎えるにつれて過激思想が退潮したという事実は、偶然の一致として片づけるわけにはいかない。タブロイド版新聞は、アメリカ人の日常生活を政治や経済の問題と関連させて扱わずに、スポーツと犯罪とセックスの三つどもえとして扱った。対抗上、他の新聞も多かれ少なかれ、この傾向に追随した。海岸の遊歩道に立つミス・スクラントン(ペンシルヴァニア州)の写真にほくそ笑み、スティールマン事件やアーバックル事件を追いかけ、モービッチ号のレースに関する予想記事を読みふけっているあいだは、労働者も階級意識を忘れた。(p.116)

 これもまた共謀罪のような超重要な法案についてろくすっぽ報じずに、レッサーパンダやら若貴兄弟の確執やら杉田かおるの結婚生活の破綻やらにかまけているマスコミのようですね。といっても、確かベンヤミンがどこかで*3相互の情報の無関連性が新聞の原則だと書いていた気がしますから、いつどこでも似たようなものなのかもしれません。
 とにかく、昔のことを知るということは今を知ることにもつながる、と思わせてくれる一冊です。「ほんの昨日」のことなんですね。

*1:異端者か正統カトリック信者であるかは、死後神が判断してくれるということ

*2:http://www.jimin.jp/jimin/kenpou/finish13.html

*3:ボードレールのいくつかのモティーフについて」だったと思うのですが、いま手元にないのではっきりしません。