ちかごろ世を騒がせている(というかマスコミが騒いでいる)必修科目未履修問題についてなど。

 本を読む暇がなかったのでしばらく放置していたのだが、なぜかアンテナで更新チェックされていたのをきっかけに復帰してみる。
 私は田舎の公立高校出身で、受験対策の必修逃れなどにはとんと縁がなかった。なんせ男子校であるにもかかわらず(本来は、であるからこそ、なのかもしれないが)、三年生になっても家庭科で男だらけの調理実習をやっていたりした。これには一番できの悪かった班の料理を担任に食べさせるといううるわしい慣習があって、みんな怪しい手つきながらもけっこう楽しくやっていたことを思い出す。要するに呑気な雰囲気の学校だったのだ。
 件の世界史の授業では、月に一回は世界不思議発見だのNHKスペシャルだのといったテレビ番組を授業中に見せられた。いちど冗談半分で「これって手抜きじゃないですか?」と教師に言ったところ、彼は概略「あのな、よく考えてみろ。中央公論*1の世界の歴史シリーズなんてこんな分厚いのが三十冊もあるんだぜ。それをこんな薄っぺらい教科書一冊で、しかも一年でどうやって教えりゃいいんだよ。どうせ受験対策の年表の暗記はほっといたって生徒が勝手にやるわけだし、俺は歴史に興味を持たせられればそれでいいんだよ」というようなことを答えたと思う。そりゃそうかもしれないけど教師が言うなよと思ったものだが、今になってみると、延々と知識の詰め込み授業をするよりはいくらかましだったのかもしれないと思わないでもない。というのも、東京の私立大学に入って最近はやりの「教育格差」なるものの一端に触れたからだ。
 大学時代の同級生の一人に「こんな大学来たくなかった」と愚痴ってやまない鬱陶しい奴がいた。なんとなれば彼はその名も高き超進学校の出身で、曰くその高校には「東大志望にあらずんば人に非ず」というプレッシャーが充満していたのだという。従ってそこでは彼のような私立文系は人間として扱われないらしい。恐ろしい。田舎でのほほんとした高校生活を送ってきた私にとってはまるで伏魔殿のようなところだ*2桐野夏生の『グロテスク』みたいな世界。
 というようなことは余談でありどうでもいいとして(よくないけど)、驚いたのは大学付属校からいわゆるエスカレーターで上がってきた連中である。彼らが受けた世界史の授業は、高度に専門的な歴史の著作を複数読んでレポートにまとめるのが中心だったという。つまり大学のような授業を高校でもうやっているわけだ。これは付属校の強みで、一般の受験対策をする必要がないからだ。おまけにフランス語やらドイツ語も高校のうちに学んでいて、すでに中級から人によっては上級レベルに達している。一方こちとらまだアルファベの発音さえ知らないのだ。井の中の蛙大海を知るというかなんというか、大学生にもなって遅まきながら、普通にやっていたらこんな連中に追いつくわけがないと気づいて愕然とした。そのおかげで勉強量と読書量を増やしたといえるので、痛し痒しではあるけれども。
 前回のエントリで立身出世的な教養について取りあげたけれども、実のところ知識や学識といった意味での真の教養というのはああいう連中のものでしかないのだ。つまり、階級的な文化遺産として、あるいはそれに準ずる経済的な富裕さによる早期教育によって、教養的知識やそれに対する志向を呼吸するのと同じくらい自然に学び身に付け、すでにハビトゥスの一部に組みこんでしまっている連中だ。
 そう考えれば、進学校といえども小中と公立に通ってきた生徒ばかりを擁する高校で履修逃れと受験対策を行うのは、現行の受験体制下ではやむをえない面もあるのかもしれないが、虚しいことだ。そんなことをすればするだけ、受験知識の詰め込みなどとうに超越している同年代の高校生たちにますます遅れをとることになるのだから。
 この問題を解決ないし少なくとも緩和するにはおおまかに言って二つの方向性があるだろう。一つは、階層分化を容認して、早期から児童・生徒を進学コースと職業コースに分けてしまうことだ。ただしこれから先ますます流動性が激しくなるだろう世界経済に、そのようなモデルで対応できるかどうかはフランスなどを見てもいささか疑わしいといわねばならない。早期に職業コースを選択してしまうと、その専攻分野の産業が衰退に向かったり、経済環境が悪化したとき、つぶしが利かずに就職・再就職できない人々が大量に生まれるだろう。
 二つ目は、現在議論されているバウチャー制度や公教育の無償化を通して教育機会と選択の多様性を確保し*3、さらに大学受験を現在のような暗記クイズではなくし、論述問題を中心にするとか、あるいは大学進学のための基準を設けたうえで思い切って受験を撤廃してしまうとか、統一的な大学進学資格試験を設けるとか。いずれにしても早期からエリート教育を受けている人々が有利なのは変わらないけれども。
 ま、それはそれで新しい問題が色々出てくるんだろうけど、前回取りあげた高田里惠子さんがおっしゃるように、近代以後が「自分自身を作りあげるのは、ほかならぬ自分自身だ、いかに生きるべきかを考え、いかに生きるかを決めるのは自分自身だ、という認識である」社会である以上、教育とそれに附随する問題は増えこそすれなくなりはしないよなあ。生まれたときから生き方も職も保障されてりゃ楽なんだろうけど。というわけで、デュランダル議長のデスティニー・プランですな、ここは。

*1:当時

*2:多分に誇張が混じっているものと思われます。

*3:ただし、その場合でも生徒個人の「自由な選択」は生育環境に多分に左右されることは言うまでもない。