聖子がセイコーの精巧な時計を精工する

 それにしても、トリノオリンピック閉幕後の荒川静香選手のもてはやされぶりを見るにつけ、メダルを取るか取らないかで大きく違うものなのだなあと改めて感じる。私としては、「参加することに意義がある」オリンピックなんだし、選手本人はともかくとして、見ている側はそう結果にこだわらなくてもいいだろうと思うのだが。特に、冬季オリンピックはどうしたって地理的にも経済的にも北半球の国々が有利なわけだし*1
 金メダルは別格だからともかくとして、銅メダルを逃して敗北呼ばわりされる選手の悔しさはいかばかりだろうか。三位と四位というのは数字の上では一つしか違わないが、メダルの有無という点では天と地の差がある。
 しかし、ほんとうはそんなに差があるものではないのではないか。たとえば次のような数字を見るとそう思えてならない。

順位 名前 国・地域 タイム
3 シェーンフェルダー オーストリア 01分44秒15
4 皆川 賢太郎 日本 01分44秒18

 0コンマ03秒ですよ? こんなのは体感的には差はないと言っていいし、併走していたとしても肉眼ではどちらが速いのかとうてい判別できない。
 また、学校で徒競走のタイムを計ったことがある人は多いだろう。当然、ストップウォッチを手動で止めてタイムを計る。では、ここに百メートル走を精密計時で10秒ジャストで走った生徒と9秒99で走った生徒がいて、その二人は一緒に走ったとしよう。この場合、ストップウォッチによる計測結果はどうなるだろうか。同着? そうではないし、どちらが先になるかもわからない。なぜなら、計測者の反射神経や動体視力に左右されるストップウォッチでは、どちらが速くストップボタンを押されるかはわからないからだ。コンマ1秒以下の差異など、オリンピックの公式計時でもなければ正確には測れやしない。その数字を見れば客観的*2には明らかな差があるかもしれないが、正確なタイム計測もここまでくると人間的には一種のフィクションなのだ。
 それでも便宜上、メダル獲得者とそうでない選手との境界は明確にされなければならない。センター試験でたった一点の差が明暗を分けるように。競争である以上、それはしかたがあるまい*3。だが、その間にある果てしない断絶だけではなく、ひょっとして置換可能だったかもしれない僅かな差や、最終的な結果には反映されなかった選手の努力にも意識的でありたいと思う。
 あ、それとちなみに、トリノオリンピックの公式時計はセイコーではなくオメガなので、くれぐれも誤解なきよう。

*1:ま、日本も国家レベルでは条件的に有利な部類に入るのだろうが。

*2:哲学的、科学的には「客観的」という概念にはいろいろ面倒なことがあるが、ここではそういううるさいことは考えない。あくまで常識的な意味で。

*3:ただし、ある順位で区切って表彰するという制度が妥当かどうかという問題はあるが。