フィリップ・クローデル『灰色の魂』―愛と死

灰色の魂

灰色の魂

 いつだったか、高橋源一郎が『群像』に連載している小説論の中で、近代文学はつきつめればもっぱら愛と死について語ってきたし、いまでもそうだ、セカチューもそうだよね、というようなことを言っていた。
 うろ覚えなので多少違っているかもしれないが、それはともかくとして、死についての言及が、人の「死」という現象それ自体を語る(というか、語ろうと試みる)のではなく、「誰かの死」について哀悼なりなんらかの感慨を込めて語る場合、それが愛と表裏一体になるのは当然だろう。愛してもいない者の死をどうして悼んだり、わざわざ語ったりするだろうか? 身近な人間ではなく、見ず知らずの他人や地球の裏側の人々の死に胸を痛めたり、哀しみを覚えるのも、特定の個人ではなく人類一般に対して愛情を抱いているからに他ならない。
 この小説の登場人物のほとんどは、愛する人の死によってできた空虚な穴に吸い寄せられてしまった人々である。彼ら彼女たちと故人との愛の絆はあまりに強く、それは自他の区別をとりはらってほとんど一体になるほどであるために、生き残った者も愛する人を奪い去った死に引きずり込まれ、囚われ続けるのだ。そのため、あるものは愛する者の後を追い、あるものは生ける屍になり、あるものは虚無に生きる。

 書くのは苦しい。書きはじめた数カ月前から、ずっとそう感じている。手も痛くなるし、魂も痛くなる。人間はこんな作業に向いていないし、そもそも何の役に立つ? 私にとって何の役に立つのだ? クレマンスが私の横にいてくれたら、たとえ〈昼顔〉の死とその謎があり、あのちびのブルターニュ人の死が私の意識のどこかに烙印を押しているにしても、こんなことをぐちぐち書きつけたりしなかっただろう。そうだ、彼女が存在さえしていてくれたら、私を過去から遠ざけ、私はもっと強くなっていたのだ。結局のところ、私は彼女のために、彼女だけのために。自分をごまかすために、彼女が今いるところでなおも私を待っているのだと自分に言い聞かせるために、書いているのだ。そして、私が彼女に伝えなければならないことのすべてを彼女に聞いてもらうために。
 書くことが、彼女と二人で生きさせてくれる。(pp.207-208)

 舞台はフランスのドイツ国境にほど近い田舎町。語り手の〈私〉は、第一次大戦中に起きた少女の殺人事件の謎と顛末について手記を認めている。しかし、「誰かの死」について語るという体裁をとってはいても、その内実は死んだ妻に対する手紙、死者に向けて自分の人生を綴った通信文であり、「死んだ誰かに」直接語りかけているのだ。たとえそれが誰にも届かず、何の役にも立たない言葉だとしても、そうしなければ彼は生きていくことができないのである。
 なにもこうしたことは死者と生者に限ったことではない。下に引用するのは、出征中の恋人に向けたある女性の手紙を読んだ〈私〉の記述である。

 いくつかの手紙のなかでは、彼女が婚約者だと信じている相手に向かって、その沈黙を責め、ごくまれにその愛を疑う手紙もあった。だが翌日になると、言い訳のかぎりをつくし、彼の足下にひれ伏すのだった。だからといって、彼がそれまでより手紙を書くようになったりはしなかった。(pp.237-238)

 結局の所、人が誰かに言葉で語りかけるというのは、「そうすることで、空を流れる二つの雲を繋ぎ止めるロープのようなものを求め」(p.66)るようなことなのではないか。確固とした不動の絆を築くことはついにできないとしても、人と人の間にある、決して無になることはない距離をそれでもなんとか縮めようとして、われわれは言葉を紡ぐ。
 だが相手が死者の場合、その距離は無限であり、なおかつ零でもある。生者の発した言葉は決して死者に届くことはなく、そのままの形で自分に戻ってくる。死者に語りかけることはすなわち自分に語りかけることであり、その限りで死者と生者の距離はないに等しいのだ。だからこそ、「書くことが、彼女と二人で生きさせてくれる」のだし、ただ死者のみに対する語りかけは、彼を生きながら死に近づけてゆくのである。