乙一『夏と花火と私の死体』

夏と花火と私の死体 (集英社文庫)

夏と花火と私の死体 (集英社文庫)

 八月も後半に入ったが、なぜか「夏だ、花火だ、ホラーだ!」と唐突に思いたったので、乙一のデビュー作を今更ながら読んでみた。恥ずかしながら、夙に世評の高い氏の作品を繙くのはこれが始めてである。
 いや、さすがに評判になるだけのことはあって、とても若書きとは思えない出来である。死者による一人称の語りが斬新とはいえ、ストーリーそのものにとりたてて新味があるわけでもなく、文章や言葉の選択にときおり稚拙さ(語り手の年齢によってくる幼さとは別に)が垣間見えなくもないのだが、書き下ろし短編「優子」の緊密な構成など、じつに見事というしかない。一見よくありがちな話と読者に思わせておいて、随所に伏線を張り、巧妙な設定で読者に重要な情報を隠しておき、最後にどんでん返しをしてみせる。文句の付けどころがない。十七やそこらでこんな隙のないものを書くなんて、ませてるにも程があるというものだ。
 ……とベタ褒めしておいてなんなのだが、読後の率直な感想としては、「うまい、うますぎる! だが上手すぎる小説は飽きる*1」といったところなのである。
 いったい何が不満なんだ、と言われればうまく説明できないのだけど、なんというか、あえて喩えるなら、毛抜きで小骨まで抜いた上に蒸して脂抜きされた秋刀魚の吸い物を食した「目黒のさんま」の殿様のような気分とでも言えるだろうか。どこにもひっかかりがなく、細かい技巧ばかりが鼻につくだけで、するすると端から端まで喉を通ってしまい、後に残る味わいがないのである。「材料自慢、腕自慢の小説は真に人を感動させることはできん!*2」とでもいおうか。
 それゆえに、若いんだからもうちょっとハメを外してもいいんじゃないか、などと思ってしまうのである。とはいえ、それはこちらが勝手に野趣溢れる焦げた秋刀魚を望んでいるからで、これはそういう小説ではないのだからお門違いの不満だ、ということなのだろう。蒸し暑い夏の終わりに、いっときの興趣を味わわせてくれただけでも感謝しなければなるまい。

*1:山岡士郎の口調で

*2:海原雄山の口調で