『ひぐらしのなく頃に解〜罪滅し編』をプレイしての連想

 「仲間」のことを英語で company や companion というが、これらはいずれも文字通りには「パンを共にする」という意味である*1
 漫画版『風の谷のナウシカ』に、戦争と粘菌の災害から逃れてきた土鬼の流浪民に対して、風の谷の使者が「剣とパンのいずれを選ぶか」と迫り、リング状のパンを二つに割って分ける儀式の場面があるが、パンを分かち合うということが仲間*2になることを意味するのは言うまでもない。
 つまり、仲間とは、殺し合って食料を奪いあい、どちらかあるいは双方が滅びるかもしれないリスクを犯すようなことをせず、お互いを他者としてその存在・生存を認め、共に生き延びるために協力しあうことを呼ぶのである。
 したがって、「仲間」即「仲良し」を意味するわけではなく、必ずしもそれだけで肝胆相照らして理解しあっているとは限らないし、隠し事もすれば、お互いに相容れない部分もあり、時には対立したり仲違いすることもあるだろう。また、媒介となるパンが欠乏すれば崩れてしまうかもしれないほど壊れやすい関係でもある。だからこそ関係を維持するには絶えざる努力が必要となる。 
 「仲間」という言葉から心理的な面を捨象して、基本的にこのような意味であると思っておいたほうが、相手に過剰な期待を抱いたり、逆に過大に失望したりすることなく、かえって基本から先に進んで、真に信頼できる人間関係や国際関係を築く土台になるのではないだろうか。
 仲間だから必ず全てをさらけ出し、内面的にも通じ合っていなければならない、というような思い込みは、確かに仲間関係を強固にすることに繋がるかもしれないが、その反面、仲間とそうではない者とを峻別して過度に内向きに結束し、外部を遮断してしまう危険性を秘めているし、いったんその結束が崩れると反動もまた大きいであろう上に、そもそもある存在を仲間として認知するかどうかの識閾が高くなりすぎてしまい、前原圭一竜宮レナのように自分を周囲から孤絶した境涯に追い込むことにもなりかねないのだ。

*1:ここでは、単に「一緒に食事をする」「食卓を共に囲む」とはとらない。

*2:ここでは「われらはパンをわかつ兄弟なり/困難もわかちあおう」と言われているが、この兄弟は brother ではなく colleague や confrere のほうが近い。