宗教的高校野球考


 高校野球の季節ということで、久しぶりに『タッチ』を読み返してみたところ、あっという間に全巻読んでしまいました。やはり何度読んでもいいものはいいですねえ。
 それにしても高校野球というのは一種の民間宗教なのだなあ、などとつまらないことを思ったりしました(もっとも、『タッチ』はあくまでラブコメが主であり、野球がサッカーであっても本質的に変わりはないのですが)。
 江戸時代に猖獗を極めたお伊勢参りには、伊勢講や代参という風習があります。伊勢神宮に参詣したいと思っても行くことのできない人が、参詣する人に幾ばくかの金銭を預けて自分のぶんもお参りしてもらうという仕組みです。
 高校野球を舞台にした漫画には、負けたチームの選手が、ライバルである主人公に「俺のかわりに甲子園に行けよ」とかなんとか言う、くさい場面がしょっちゅう出てきます。これはお伊勢参りの代参と同じで、各代表校は敗れ去っていったチームの選手たち全ての想いを背負って「聖地」甲子園に参詣し、御幣として優勝旗かグラウンドの土を持って帰るのです。
 だからこそ、聖地である甲子園は「生まれながらの清浄な境地にたちかえ」(所功伊勢神宮』p.208)るべき場であり、思春期エロパワー全開の高校球児たち*1も、そこでは清純かつ純真で品行方正な青少年として振る舞わなければならないのです。
 もちろん、高校野球という一大宗教には「高野」連という教団が存在して、平の「坊主」頭である高校球児たちを管理しています。高野連はまるで「葷酒山門に入るを許さず」とでも言わんばかりに、坊主頭の不祥事(飲酒喫煙とか、暴行とか、不純異性交遊とか)を探し求め、それを見つけだしては懲罰を加えて外部に追い払い、自らの権威と甲子園の清浄さを保つのです。
 しかし、『大菩薩峠』の作者、中里介山は次のように書いています。

 道中は、委細道中気分で我を忘れてふざけきっていた旅人が、七里の渡しに来て、はじめて本来のエルサレム「伊勢の国」を感得する。但しこのエルサレムは、巡礼者の心をして厳粛清冷なる神気を感ぜしむる先に、華やかにして豊かなる伊勢情調が、人を魅殺心酔せしめることを常とする。そうして七里の渡しの岸頭から、伊勢の国をながむる人の心は、間の山の賑やかな駅路と、古市の明るい燈に躍るのである。
 神を尊敬する日本人には、神を楽しむという裏面がある。清麗にして快活を好む日本人は、大神の存するところを、厳粛にして深刻なる修道の根原地としたがらないで、その祭りの庭を賑やかにし、その風情に遊興の色を加えることを忘れない。伊勢へ行くということは、日本人にとっては罪の懺悔に行くのでもない、道の修練に行くのでもない、一種の包容ゆたかなる遊楽の気分を持って行くのである。そこに日本人が神を慕う特殊の心情と行動とがある。伊勢参りの憧れは、すべての日本人にとって明るい。
(中里介山大菩薩峠 弁信の巻』)

 『東海道中膝栗毛』の中で、普段はこれでもかというぐらい馬鹿馬鹿しい駄洒落や下ネタで盛り上がる弥次喜多も、伊勢神宮では「本来のエルサレム」を感得したのか、うって変わって「すべて宮めぐりのうちは、自然と感涙肝にめいじて、ありがたさに、まじめとなりて、しゃれもなく、むだもいわ」なくなってしまいます。
 しかしながら、そうした雰囲気が常に身の回りにあるわけではなく、宮の外に一歩出れば、神の目の前で夜這いをかけたり馬鹿騒ぎにかまけていたりもするのです。それがあくまで幕府の管理のもとにあり、制度の維持に役立つガス抜きに過ぎなかったとしても、お伊勢参りは遊楽としての意味や、民衆のエネルギーが過剰に発散される余地を持っていました。
 日本の夏の風物詩にしてスポーツの一大祭典たる高校野球が抹香臭いのは、こうした猥雑さを全て放擲し、教育の一環という題目のもとに「罪の懺悔」と「道の修練」を球児たちに課しているためです。そしてそれは、野球が日本に伝えられた明治以降に、国家神道へと変質した、日本の神信仰とどこか似通っているのです。
 ……ていうかこのエントリーは、高校球児に甲子園を乗っ取られてロードに出た阪神が例年通り調子悪いのを嘆いて書いた、いち阪神ファン高校野球に対する恨み節なので、冗談半分に受け取って下さい。

*1:たぶんそうなんじゃないかと思う。