米澤穂信『クドリャフカの順番「十文字事件」』

クドリャフカの順番―「十文字」事件

クドリャフカの順番―「十文字」事件


 『クドリャフカの順番』で扱われる事件は犯人からある特定の人物に向けられたメッセージである。それも、ある「順番」に従って暗号化された(文化祭を台無しにする危険を冒してまでする割に、面と向かって直接言えばいいだろ、とか思ってしまう程度の内容なのだけど、思春期の少年少女を描いただけあって、その辺が「これが若さか……*1」ということなのかもしれない)。
 ロゼッタストーンにはヒエログリフギリシャ語によって同じ内容の文章が記されていたために、比較対照によってシャンポリオン古代エジプト文字を解読することができた。同じように、折木奉太郎も暗号に対応する乱数表的なものを発見するのだが、犯人はただ一個所だけそれに当てはまらない犯行をする。そこで折木はその欠如を、他の少ない情報を勘案して、推測で埋めることによって暗号解読に成功するのである。
 考えてみれば、この神谷高校古典部シリーズは既刊三作とも、ある人物によってテクストに託された一つの意味を折木が読解するという物語であった。『氷菓』では「氷菓」という部誌の題名に、『愚者のエンドロール』では書きかけの映画のシナリオにと、いずれも文字や文章や言葉が謎を解く鍵になっているのである。そして『氷菓』ではそれが著者の死後になってようやく読みとられ、『愚者のエンドロール』では誤読されてしまった。今作では折木によって読み解かれはしたものの、犯人が本当にメッセージを伝えたかった人には届かず、折木によって古典部のために利用されただけだった。
 もっとも多くの推理小説はおおまかに言って犯人の残したメッセージを探偵が読み解くという構造を持つが、このシリーズでは文字通り事件(というほどのものではない)そのものが言葉によるテクストであり、折木や福部などの探偵はそれを読み解く読者なのだ。だが作者の意図は必ずしも読者によって正確に読み解かれるとは限らず、ただ娯楽として消費されてしまうか、読者(探偵)それぞれの読み方で自由に解釈されてしまうことのほうが多い。また読み解かれたとしてもそれが読者の琴線に触れるとは限らない。すなわちこのシリーズは筆者と読者の関係や、コード(お互いの間の約束事、相手に関する事前の知識など)やバックグラウンド(時代や環境)を共有しない人間が他者の発したメッセージをどのように受け取るか、またどのようにメッセージを発するかということを描いているのである。
 その点で、今回の犯人はコードもバックグラウンドも共有する相手にメッセージを伝えるために(やり方がまわりくどいにしても)かなり周到な仕掛けを凝らしたといえる。だがそうまでしても必ず相手に意志が届き、それが受け入れられるというわけではない。(双方向的な対話ではなく、一方向的に自分の意図を伝達しようとする形の)コミュニケーションにおいて、受信者が送信者を完全に理解し、受け入れることなどあるはずがない。対話的で流動する言葉のやりとりではなく、固定された言葉を発したり聴いたり、文章を書いたり読んだりするとは、つまるところそういうことなのではないか。
 今作では四人の古典部員は誰が主人公というわけでもなく、それぞれの一人称が割り振られているが、それは、たとえ推理小説であっても、各々がテクストとどのように関わろうと読者であることに違いはないからであり、そこにホームズとワトソンやレストレード警部のように読解力や能動性による主役・脇役の差はないということなのだ。などと言っている私の読みがそもそも完全な誤解であるかもしれないが。