ジャン・ジャック・ルソー『社会契約論』から『孤独な散歩者の夢想』へ――コンフリクトなきコミュニティの夢想


 ジャン・ジャック・ルソーについて『レ・ミゼラブル』の青年革命家・アンジョルラスに評してもらえば、「ジャン=ジャックのことをとやかく言うな! あのひとにぼくは敬服してるんだ。なるほど子供は捨てた。だが、そのかわり民衆を養子にしたんだ」(辻昶訳)とのことである。
 なるほど彼は自分の子供をことごとく孤児院送りにしてほったらかしておいた。そのかわりに人民主権の礎を築いたといえるだろう。彼の思想はフランス革命に多大な影響を与え、日本を始めとした東洋にも「東洋のルソー」中江兆民を通じてデモクラシーが広まるに至った。
 しかしアンジョルラスの言葉の「子供は捨てた。だが、そのかわり民衆を養子にした」という部分に、「個人よりも全体」という、ルソーの思想の持つ危うい面がいみじくも表れているような気がしてならない。

 多くの人間が結合して、一体をなしているとみずから考えているかぎり、彼らは、共同の保存と全員の幸福にかかわる、ただ一つの意志しかもっていない。その時には、国家のあらゆる原動力は、強力で単純であり、国家の格律ははっきりとして、光りかがやいている。利害の混乱や矛盾はまったくない。共同の幸福は、いたるところに、明らかにあらわれており、常識さえあれば誰でもそれを見分けることができる。平和、団結、平等は、政治的なかけひきの敵である。正直で単純な人間は、単純さのゆえに、だまされにくい。
術策や[巧みな]口実をもってしても、彼らをだますことはできない。彼らは、あざむかれるだけのずるさすらない。世界中で、もっとも幸福な国民の間で、農民の群がカシの木の下で、国家の諸問題を決定し、いつも賢明にふるまっているのを見るとき、他の国民の、洗練されたやり方を軽べつせずにおられようか? それらの国民は、数多くの技術と神秘によって、有名にはなったが、不幸にもなったのである。
 こういうふうに[素朴に]治められている国家は、きわめてわずかの法律しか必要としない。そして、新しい法律を発布する必要が生ずると、この必要は誰にも明らかになる。新しい法律を、最初に提出する人は、すべての人々が、すでに感じていたことを、口に出すだけだ。他人も自分と同じようにするだろうということが確かになるやいなや、各人がすでに実行しようと、心に決めていたことを、法律とするためには、術策も雄弁も問題ではない。
『社会契約論』桑原武夫・前川貞次郎訳


 こう書いたときのルソーは、スタロバンスキーが『透明と障害*1』でいうように、何よりも純粋な「透明さ」を愛していた。全ての人の心は透き通っていて、国民全体を照らす光は反射することもなく一般意志に収束する。そこには一切の矛盾も対立もなく、国民全てに幸福がもたらされる……。つまり彼は人々に面倒なコミュニケーションではなく無葛藤のコレスポンダンス(交感、照応)を求めていたのだ。そこでは一切の個人は社会全体と不可分に一体化するのだから、政治上の「術策や雄弁」など必要なく、議論することもなく他の成員の心を見通すことができるのである。
 彼の思想に含まれるこうした部分が、フランス革命におけるジャコバン独裁と恐怖政治(La Terruer)に繋がる要素を持っていたことは否めない。「プロレタリアート独裁」という集合的な概念がしだいに党独裁から個人独裁に移っていったように、また「神」という人に姿を見せない存在の言葉が教皇などの地上の代理人を通して伝えられ解釈されるように、ルソーが「われわれの各々は、身体とすべての力を共同のものとして一般意志の最高の指導の下におく。そしてわれわれは各構成員を、全体の不可分の一部として、ひとまとめとして受けとるのだ」というとき、たとえ各々の構成員の身分が自由で平等だとしても、「一般意志」という実体のないものが全ての人々を糾合して代表するのなら、やはり実際には特定の党派や個人*2がそれを代行せざるをえないからである。それだけならまだしも、加えてそれが無矛盾で無謬でありしかも排他独占的に正当/正統であると措定されるとき、社会は不自由で異質さに不寛容になり、悲劇が不可避的に起こる。かくして断頭台が革命の象徴とあいなるのである。

 そうだ、個人的なもの、わたしの肉体の利害につながるものは、なにひとつとして、わたしの魂をほんとうにみたすことはできない。わたしがこのうえなく快い思いに沈み、夢みるのは、自分というものを忘れたときなのだ。いわば万物の体系のなかに溶けこみ、自然全体と同化するとき、わたしは言い表わしがたい陶酔を感じ、恍惚を覚える。人々がわたしの同胞であったあいだは、わたしは地上の幸福を思い描いていた。その計画はいつも全体につながるものだったので、わたしは公衆の幸福がなければ幸福になれなかった。自分ひとりの幸福という観念が初めてわたしの心に浮かんできたのは、同胞がひたすらわたしの不幸のうちにかれらの幸福をもとめていることがわかってきてからである。そうなると、かれらを憎まないようにするには、どうしてもかれらを避けなければならなかった。そこでわたしは、万物の母のふところへ逃げ込み、その腕に抱かれて、その子供らの攻撃をまぬがれようとした。わたしは孤独な人間になった、あるいは、かれらの言葉を借りれば、反社会的な人間になり、人間ぎらいになった。背信と憎悪にのみ養われている邪悪な人間の社会よりも、どんなに寂しくても孤独のほうがわたしには好ましく思われたからである。
『孤独な散歩者の夢想』今野一雄訳


 『社会契約論』を発表して以降のルソーはヴォルテールなどの百科全書派をはじめとして多くの敵を作り、官憲からも迫害を受けて各地を渡り歩いた。そうして苦渋を舐めた後に晩年まで書き続けられたのが『孤独な散歩者の夢想』である。しかしここでもルソーは変わっていない。やはり彼は個を全体へと溶解して一体化しないことには満足が得られないのであり、ただその対象が人間から自然へと変わっているだけだ。まあそれなら個人的なロマン主義的夢想にとどまり、さしたる害もなかろうが。
 それでも人間の社会でそのようなことがあり得ないことは身に染みて知ったはずで、アルセストよろしく「人間ぎらい」の境地に達したルソーが新しく社会契約論を書いていれば、より興味深いものになったのではないかと思うのだ。
 とはいえそれも、

 現代のすべての人は、わたしひとりの心の糧となっている思想のうちに、誤謬と偏見をみるだけだ。現代人はわたしの体系と反対の体系のうちに真理と明証をみいだしている。わたしが自分の体系をまじめに採り入れたと信じることさえできないらしい。わたし自身も、心からそれにうちこんでいながら、わたしにとって解決不可能な、うちかちがたい難点をそこにみいだしている。しかもそれに執着している。いったい死すべきもののうちでわたしひとりが賢者なのか、わたしひとりが知識ある者なのか? 事態はこうであると信じるには、そのほうがわたしには都合がいい、というだけで十分だろうか? ほかの人の目からみればなんら強固なものとは見えず、わたし自身にとってさえ、心情が理性を支持しなければ、虚妄と見えるかもしれない表面的な事実に信頼するのは賢明といえようか?『孤独な散歩者の夢想』


 というような一節を見ると、やはりその思想に変わりはなかったかもしれない。ルソーもアルセストと同じく「孤独」というより「孤高」のほうがふさわしい*3



社会契約論 (岩波文庫)

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孤独な散歩者の夢想 (ワイド版 岩波文庫)

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