渋谷望『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

 いささか結論部分に疑問がないではないが、現状分析の鋭さは一級品。 
 いろいろと勉強になったけれど、この本の本筋とは少し外れたところで注目したところがある。それは次の部分。

この統治/公共性の形態の特徴は、政治的なもの――敵対性 antagonism ――は存在しえない点にある。そこでは人間には次の二つのカテゴリーしか用意されないからである。よき統治に従順な者となるか、あるいは統治されることを拒む犯罪者になるか。真の意味での「市民」というカテゴリー――それは定義上、「よき統治」から自律し、それに対抗的な存在である――はもはや不要となり、それにともない市民内部のサブカテゴリーや敵対性も消滅する。このことは、かつての福祉国家市民社会内部の労使の対立をはじめとする敵対性とその妥協に基づいていたことと対照的である。(pp.194-195)

 唐突だが、これを読んでボードレール散文詩集『パリの憂鬱』の一遍、「打倒貧民!」を思い浮かべた。
 詩の語り手が街で一人の乞食と出会うのだが、施しをするどころかこともあろうに殴りかかり目を潰し、木の枝で打ち据える。そして彼もまた乞食に殴り返され、目を潰され、歯を折られ、木で叩かれる。それから彼は乞食に向かってこう言うのである。

「やあ君、君はもう僕と対等ですよ! どうぞ僕の財布をお分けする光栄を許してくれたまえ。君が真の博愛主義者だったら、君の仲間から施しをせびられたときには、いま僕が心苦しくも君の背中に試みた学説を、彼らにも片っぱしから適用すべきであるということを、とくと覚えておきたまえ」(阿部良雄訳)

 彼がなぜこんなことをするかというと、「他人と対等であるものは、それをよく立証するものに限る。自由を得るに価するものは、それを征服し得るものに限る」からである。仏文学者の出口裕弘はこの詩について次のように言っている。
 

老い朽ちた乞食の「王座をも覆しかねない」眼に「立証された平等と戦い取られた自由」の光を点ずるためには、乞食の歯をへし折らねばならず、点火者の方も歯をへし折られねばならない。乞食は攻撃性の完全な放棄あるいは欠如によって乞食であるのだから、その眼に闘争の炎を点ずるためには半殺しにしなければならず、またこちらも半殺しにされなければならない。慈悲、憐れみの介入する余地のない平等、自由人同士の平等が束の間だけ成立するのはその時だ。その、束の間だけ成立した自由人同士の平等は、ただちにまた次の闘争によってどちら側からにせよ確証し直されねばならぬ。人間の平等欲求は優者としての不平等欲求と別のものではなく、自由はその構造からして他者支配を志向せざるをえないからだ。前に引いた一八六〇年八月のプーレ・マラシ宛の手紙には、人間における対立(アンタゴニスム)の消滅を否定して、「永遠の闘争による永遠の調和」を説くくだりがあった。 (出口裕弘ボードレール』小沢書店 pp.134-135)

 共通するキーワードは antagonism(対立)。要するに、支配を覆い隠すソフトな外面を見せてすり寄ってくる輩に唯々諾々と従うな、ただ与えられるのを待っているな! ということ。自由と平等に基づくものでなければそれは博愛や友愛ではなく上から下への施しやお情けでしかないのだ。ただ現代ではこうした近代的な闘争・対立を緩和したり調整する機能がそれこそどんどん緩和されてしまっているために、そこから脱落する人があまりに多くなりつつある。また、肉体的精神的にこうした闘争に耐えられない、あるいはそもそも参加できない人はどうすればよいのか。これらの問題にはもっかのところ立岩真也氏の一連の仕事が参考になりそうだが、これはまた別の話。

ボードレール全詩集〈2〉小散文詩 パリの憂鬱・人工天国他 (ちくま文庫)

ボードレール全詩集〈2〉小散文詩 パリの憂鬱・人工天国他 (ちくま文庫)