レイモン・クノー『文体練習』


文体練習

文体練習


 レイモン・クノーは一時期シュルレアリスム運動に参加していたが、ほどなくして離脱し、やがてウリポ(潜在文学工房)という運動の中心人物になった。ウリポというのは言葉を科学的かつ体系的に組み立てるという言語実験を主にしていたのだが、クノーの場合そうすることによって言葉の、あるいは文学の新しい可能性を探求するというよりは、それをとことんまで突き詰めて限界に達しようとしてたんじゃないかと思ってしまう。

1,メモ 
「S系統のバスのなか、混雑する時間。ソフト帽をかぶった二十六歳ぐらいの男、帽子にはリボンの代わりに編んだ紐を巻いている。首は引き伸ばされたようにひょろ長い。客が乗り降りする。その男は隣に立っている乗客に腹を立てる。誰かが横を通るたびに乱暴に押してくる、と言って咎める。辛辣な声を出そうとしているが、めそめそした口調。席があいたのを見て、あわてて座りに行く。
 二時間後、サン=ラザール駅前のローマ広場で、その男をまた見かける。連れの男が彼に、『きみのコートには、もうひとつボタンを付けたほうがいいな』と言っている。ボタンを付けるべき場所(襟のあいた部分)を教え、その理由を説明する」(レーモン・クノー『文体練習』、朝比奈弘治訳、朝日出版社

 『文体練習』はこのなんの変哲もない文章を九十九通りの異なった文体で綴っただけの本である。といってもそれぞれの文体によって読み手が受ける印象はまるで違ってくる。一つの内容をこれだけ豊富な語り口で変奏できるということが、言葉の可能性をまざまざと示してくれている、といえるかもしれない。しかし、私の感想としては、これはクノー版『紋切り型(文体)辞典』とでもいえるのではないろうか、ということだ。 
 クノーは九十九通りの書き換えを行った時点でこの試みに区切りをつけたが、これを読む限り、いくらでも続けることができたただろうと思う。だとすれば、作家が腕を磨き、自分固有のものとして扱う文体というものは、科学的にいくらでも生み出せる可能性のうちの一つにすぎないのではないだろうか。
 フローベールは「この書物のはじめから終わりまで、ぼく自身がつくり上げた言葉は一つとして挿入されることなく、ひとたびこれを読んでしまうや、ここにある文句をうっかり洩らしてしまいはせぬかと恐しくなり、誰ももう口がきけなくなるようにしなければなりません」と言った。もしある作家が『文体練習』のなかに自分の文体を見いだしてしまったら、その人はもう「ここにある文体をうっかり使ってしまいはせぬかと恐ろしく」なってしまい、語り口を変えなければならなくなるのではないか。しかし、そうして書き換えた新しい文体もまた、クノーの実験によって生まれ得る程度のものなのではないか。だとすれば、作家が文体にこだわる理由などあるのだろうか。少なくとも、ある作家にしか書き得ない「固有」な文体など存在しないのではないか……etc、etc。マラルメやバルトやフーコーが理論的に問いかけていたのと似たような疑問を、クノーは言葉遊びによって提示してしまったのである(たぶん)。